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第337話 SMOKE(12)

「俺の前で二度とスーツ着てくれなくなっても困るし。」 「普通には着るよ。またバイトで着るかもしれないし、サラリーマンにでもなりゃ毎日。その前のシューカツでも。」 「普通には……。」 「そう、普通。俺の大好きな普通。だから、ごっこ遊びでは着ない。」 「ケチ。」 「おまえなあ。」 「そのぐらいしてくれたって。」 「そのぐらいって、結構いろいろやってやってると。」和樹は不服そうに申し立てたが、そこで黙り込んだ。それから、涼矢の隣に座った。その勢いでベッドも涼矢も弾む。「まあ、いいよ。着てやるよ、スーツぐらい。」 「やった。」涼矢は笑う。 「馬鹿。」和樹も笑った。「スーツでもジャージでも、白衣だって裸エプロンだってそうしろって言えばやるよ。」和樹はもじもじと指を組み合わせ、また、組み替えた。「おまえが俺にしてほしいことなら、なんだって。」 「……らしくないなあ。」涼矢は和樹の肩を抱いた。「なんか、俺が言ってることみたい。」 「嫌なんだ。」和樹は涼矢のほうは見ずに、うなだれるような姿勢だ。「後になって、ああすればよかった、こうしてやればよかったって思うの。」 「俺がもうすぐ死んじゃうみたいな言い方、するなよ。」涼矢は和樹の肩にある手を二の腕のほうに移動させて、ぎゅっと自分に寄せた。 「……ホントだ。」和樹は小さく笑った。「やっぱ俺、少し、おかしいな。」 「しっかりしろよ。明日はさ、おまえのほうがその先生たちを元気づける立場なんだから。」  和樹は今それに気が付いたと言うように目を見開いて、涼矢を見た。「そうか。そうだよな。まあ、小嶋先生たちを元気づけるなんて芸当は俺にはできないと思うけど、俺のほうがしょげてたらダメだよな。」 「そうだよ。」涼矢はまた和樹の頭を撫でた。「俺はしょげてる和樹も好きだけどねえ。隙だらけで。あ、ダジャレじゃないぞ。」 「くっだらねえ。」和樹は笑った。  翌日、予定通りに大学に行き、いったん帰宅した和樹は、涼矢がアイロンをかけてくれたワイシャツを着た。 「アイロン、サンキュ。」と涼矢に言う。 「場所はどこでやるの?」 「落合。」 「それって近い?」 「電車で20分ぐらいかな。」 「車で送ろうか?」 「いや、塾寄るし。あ、でも、帰り、迎えに来てくれたら助かる。」移動が楽だからというよりは、葬儀の場から一刻も早く逃れたい気がしていた。涼矢の顔を早く見られたら、その分、早く気持ちも上向くだろう。 「分かった。」  和樹は塾に寄り、早坂から香典を言付かった。きちんと袱紗に包まれている。黒いネクタイを貸してもらい、その場で締めた。 「あ、ネクタイ、いつお返しすればいいですか。明日、告別式で使いますよね?」 「他にも持っていますからいいですよ。次の出勤の時にそのまま返していただければ結構です。差し上げてもいいぐらいですが、もらって気分の良い物でもないでしょうから。」  弔事用だからといって気にはしないけれど、特別に欲しい物でもないので、和樹は素直に頷いた。それから通夜の大体の流れを教えてもらう。そして、今回については、普段の時給とは別途に手当として5,000円出すがそれでいいだろうかと問われた。 「でも、これ、俺はバイトじゃないと思ってるんで……。」と和樹は言う。 「そういうわけには行きませんよ。こちらが依頼した仕事です。」早坂はそこで言葉をいったん切り、ふと優しい表情を浮かべた。和樹は早坂のそんな笑顔は初めて見た。「でも、そうお考えいただけるなら、非常に嬉しいです。……では、面倒なことをお願いしてしまって申し訳ないですが、よろしくお願いします。特に、久家……。」最後のほうは、早坂にしては珍しく頼りない小声で、ほとんど聞き取れなかった。 「え、久家先生?」 「ああ、いや、すみません。」 「久家先生、どうかされたんですか?」  早坂は険しい表情に戻った。こちらのほうが見慣れている。「電話でも言いましたが、彼らのことは、お身内の方は誰も認めていないんです。……小嶋の父親は市会議員を務めていて、小嶋はその長男で、周囲からはいろいろと期待もされていました。そのすべてを裏切る行為だったんですよ、久家と生きるという選択は。いっそ家を捨てて、2人で駆け落ちでもすれば良かったんでしょうが、小嶋はあれで義理堅いところもあって、両親を捨てられなかった。妹さんが継ぐ形で政治の道に進んでいるのですが、彼女に対しては自分が果たすべき義務を肩代わりさせた負い目があるみたいだし、もう1人の妹さんには障害がありましてね、施設にいるんですが、彼女のことも気がかりだったんでしょう。彼女たちのことも捨てられなかった。久家はそういう小嶋のために、一緒にあの家で暮らす決断をしたわけですが、そのことへの風当たりは、相当だったと思います。ですからね、今日、もしかしたら都倉先生は、見たくもない光景を見ることになるかもしれません。私が行ければ何とかできることもあるのでしょうが、これ以上こちらの個人的な事情で生徒を犠牲にするわけには行かないので。私たち3人が一番大事にしているのは、ここのこどもたちですからね。都倉先生を巻き添えにしてしまったのは、実に申し訳ないことなのですが、ご理解いただければありがたい。」  和樹はただ「はい。」とだけ答え、早坂に頭を下げた。それ以上何も返せなかった。  和樹は再び電車に乗り、葬儀場へと向かった。  小嶋家と書かれた会場の受付に行くと、早くもそこで久家と顔を会わせた。 「ああ、都倉先生が来てくれたの。ありがとう。」と久家はいつもの柔和な微笑みを浮かべた。だが、さすがに少しやつれているようにも見える。

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