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第339話 SMOKE(14)

「じゃあ、久家先生は小嶋先生のこと、なんて呼んでるんですか。」 「おじさんたちの呼び方なんて、どうでもいいじゃないですか。」 「聞きたいですよ。」 「都倉先生は、彼女いるんでしょ?」 「話題変えようとしないでくださいよ。」 「まいったなあ。」久家は薄い頭を掻いた。「向こうはノブって呼んでますよ。私、ノブオって書いて信夫(しのぶ)でしょ。両方に掛けてる。で、私は彼をヒデさんって。彼、英機(ひでき)だから。ね、大しておもしろくもないでしょ。」 「職場でついうっかり呼んじゃったりしないですか。」 「ああ、それはないですねえ。スイッチが切り替わる。」 「さすがですね。」お世辞のつもりもない。実際、そんな風に馴れ馴れしく呼び合う姿は見たことがない。 「そういうところ、早坂がうるさいしね。」久家はそう言って悪戯っぽく笑ってみせた。 「前の会社で同期なんですよね、久家先生と小嶋先生と教室長。」 「そう。早坂と小嶋は大学院を出てから入社してるし、私は浪人もしてるんで2人より3つ年下なんだけど、なんだかウマがあって、3人でよく遊んでました。飲みに行って、会社の愚痴言って。小嶋はその頃一人暮らししてたから、終電逃したら小嶋のとこに泊まらせてもらったりしてね。でも、早坂はその頃からきちっとしてたねえ。ちゃあんと家に帰れる時間までしか遊ばない。だから、3人で出資して独立起業しようって話になった時にも、代表は早坂だってことはすんなり決まりましたよ。おもしろみのない奴だけど、ああいう人間がいないと成り立たないことは多々あるものです。」 「それで、そのうち、小嶋先生とつきあうように……?」 「やだなあ、そんな話。」久家はまた真っ赤になる。まさに茹でダコのようだ。  和樹は周りをチラリと見渡した。避けられているのか不明だが、和樹と久家のすぐ隣には誰もいなかった。それでも念のために一応ぐっと声を抑えて、和樹は言った。「……俺、つきあっている人がいます。」 「ああ、いるだろうね、きみなら。」久家は少し安堵したようだ。矛先が自分と小嶋ではなく、和樹の話になったからだろう。  和樹は口を開きかけたが、言葉がとっさに思いつかずに、スマホを出した。写真を何枚かスワイプしていく。 「彼女の写真、見せてくれるの? さぞかし可愛い子なんだろうなあ、都倉先生、モテそうだもの。」そんな軽口を言う久家に、和樹は1枚の写真を見せた。夏に撮った、涼矢の写真。振り向きざまに撮ったから驚いた表情をしている。「ん? これは、お友達?」久家はにこにこ顔のままそう言った。 「彼、です。」 「……え。」久家の表情が一瞬固まった。  和樹は写真を1枚進ませた。今度は和樹とのツーショット写真だ。「つきあってます。」 「そういう、つきあいで?」久家は怪訝な顔をした。 「はい。」和樹は更に別の写真を。少々ピンボケだけれど、和樹が涼矢の頬にキスしている。恥ずかしかったが、本気の「そういうつきあい」なのだと分かってもらいたかった。 「そうか。」 「初めて自分から言いました。東京来て、初めて、他の人に。」和樹はすぐに画面を閉じて、うつむいた。 「そうか。」久家はそう繰り返すといつにも増して優しく微笑んで、和樹の肩をとんとんと優しく叩いた。「ありがとう。」 「いえ。俺が、です。俺が感謝してるんです。すごく、心強くて。その……先輩がいるんだってことに。」 「頼りない先輩で申し訳ない。」久家は笑った。和樹の突然の告白を疑うことも、追及することもない。 「いっこだけ教えてください。」 「なんでしょう。」 「こういう選択をしたこと、後悔してないですか。」 「うーん。」久家は遠い目をして、少し考え込んだ。「後悔はないですね。問題はいろいろあったし、今でもあるけれど、それなりに幸せにやってます。でも、それが選択した結果なのかと振り返ってみると、そうは思えないと言いますかね。あちらさんがどう思ってるか分からないから、私は、ってことにしておくけど、少なくとも私は、選んでこうなったとは思ってない。単にこういう生き方しかできなかっただけです。他の道が見えなかった。彼と離れることは考えられなかったし、彼は親きょうだいを捨てることができなかった。塾の仕事だって、もっともっとやらなきゃいけないことがある。捨てられないものに必死にすがりついて、目の前のやらなきゃならないことをこなしていたら、こうなった。それだけです。」久家は煙草を取り出して吸い始めた。和樹は久家が喫煙者だったことを初めて知った。煙草を持つ手をじっと見つめる和樹に気付いて、「あ、聞きもしないですみません。煙草、大丈夫ですか。」と言った。 「大丈夫です。久家先生が吸うって知らなかったんで、ちょっとびっくりしました。」 「ああ、そうだよね。塾はビルごと禁煙だしね、かといって外は路上喫煙禁止だし、吸うには少し先の煙草屋さんの喫煙所まで行かなきゃならないんですよ。うちの塾、休憩時間短いから、その間に行って帰る時間もなくて。小嶋もスモーカーだったけど、ガンきっかけでやめたもので、家でもおちおち吸えませんし、だから、久しぶりに今吸ってます。早坂にもいっそ禁煙しろってうるさく言われてるんですけどねえ、なかなか。」 「小嶋先生も吸ってらしたんですね。」 「そう、私よりヘビースモーカーでした。そう言えば親しくなった最初のきっかけは、元いた会社の喫煙室で、同じ銘柄吸ってたことだったなあ。懐かしい、あれ、何十年前になるんだろうねえ。都倉先生の生まれる前ですよ。」  会社の同僚。同じ銘柄の煙草。飲み仲間。そういった友情が恋愛感情に変わったのはいつのことなのだろう。 「そうだ、さっき素敵な写真を見せてくれたからね。おもしろいものお見せしますよ。」久家は短くなった煙草を灰皿で揉み消すと、スマホを操作した。さっきの和樹と同じように、写真を探す。やがてある画像のところで手を止めて、画面を和樹に示した。「これ、誰だと思います?」  昔の写真をスマホで撮りなおした画像のようだ。以前、哲に見せられた義父の写真と同じように、画質の粗さが目立つ。そこには2人の青年が映っていた。山の見晴らし台らしきところで撮影されたようで、山の名前と標高何メートルといったことが書かれた看板に寄り添うように立っている2人。 「小嶋先生……と、これ、久家先生ですか?」 「そう、ご名答。まだ痩せていて、髪の毛もふさふさだった頃の僕です。別人でしょう。小嶋先生はこうしてみるとそんなに変わってないのかな。」  いや、小嶋だって大いに変わっている。筋骨隆々で、背筋も伸び、意志の強そうな太い眉毛をしていて、こうして見るとなかなか男前だ。現在とはまるで違う。これを「そんなに変わっていない」と言えるのは、やはり愛ゆえになのだろうか。だとしたら愛の力は偉大だと和樹は思う。

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