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第341話 SMOKE(16)

「私はだめなんですよねえ。近くにいて、しょっちゅう顔見てないと。」外見に似合わない言葉が久家から飛び出して、和樹は笑っていいものやら何やら戸惑った。「逆に言うと、しょっちゅう顔を会わせる相手は、すぐ好きになっちゃうんだけどね。惚れっぽいんですよ。」久家のほうが自分でそう言って笑った。 「でも、何十年も続いているわけですよね。」 「うーん、長い付き合いですからね、その間には、何度もくっついたり離れたりしてましたよ。でも、最後は小嶋に戻っていく。結局、一緒にいて一番楽だからね。一から始める恋愛なんて、する気力もだんだんとなくなってくるし、人間、楽なほうへ楽なほうへと流れていくわけです。流れ着いた結果が今ってだけですよ。」 「見習います。」 「見習っちゃだめですって。」  久家がそう言って苦笑したその時、遠目に涼矢の車が入ってくるのが見えた。タクシー乗り場の手前で停車した車を指差して、「あれです。」と和樹が言うと、久家は灰皿で煙草を消した。2人で車に近寄っていく。涼矢は和樹の隣にもう1人いるのに気付くと車から降りようとしたが、それを久家が制し、「そのままでいい」とジェスチャーで示した。その間に和樹は助手席側に回り込み、涼矢に簡単に経緯を説明した。久家が後部座席に乗る。 「すみません、なんだか、送っていただくことになってしまって。」 「いいえ、全然。武蔵境でしたっけ。僕、こっちの道には詳しくないんですけど、とりあえず駅に向かえばいいですか?」 「はい。……ご挨拶が遅れましたが、私は久家と申します。都倉先生にはいつもお世話になっております。」 「運転席からで失礼します。僕は都倉の友人で田崎と申します。田崎涼矢です。」 「あ、ごめん、言っちゃった。」和樹が言う。 「何を?」 「彼氏だって。」 「……あ、ああ、そう。」涼矢は瞬時にして赤くなった。 「はい、うかがいました。」久家がにこにこと言う。「いいですね、イケメンカップルで。羨ましい。」 「そういうことは先に言えよ。」涼矢は小声で和樹を非難した。 「ごめんごめん。焦って事故らないでくれよ。」 「そうなったら、おまえのせいだ。」 「いつもこんな調子で、冷たいんですよ。」和樹は後部の久家に向かって言った。 「アツアツに見えますけどね。」 「ちゃんとできたの? お焼香とか。」涼矢は話題を変えた。何気なさを装ったつもりだが、わざとらしさは拭えなかった。 「できた、と思う。教室長に大体教えてもらったし。」 「きちんとしてらっしゃいましたよ。」久家がフォローした。 「明日は告別式だろ。行かなくていいの。」  和樹は久家を振りむいた。「明日は教室長が行くって聞いてるんですけど……。」 「いいです、いいです。明日こそ身内ばかりですから。早坂はまあ身内みたいなものなのでともかく、都倉先生は今日来ていただいただけで。」久家はそこで座りなおした。「早坂は知らないんですよね?」 「こいつのことですか?」和樹は涼矢を親指で指した。 「はい。」 「知りません。だから、正直、なんで俺なのかって思いました。今でも思ってます。スーツの件でお2人のこと教えてもらった時も、他の先生方は知らないことだって口止めされて、だけど、だったらなんで俺にそのこと話してくれたのかなって。」 「早坂は勘が鋭いから、何か思うところがあったんだと思いますけどね。ま、とりあえず早坂には黙っていますから、きみたちのことは。」 「……はい。えっと、本当はバレたって別にいいんですけど、教室長にまで知られてると思うと、生徒の前で隠せなくなるかもしれないから。」 「難しいところですね。正直、そういうことをオープンにできたら救われる子もいるんだろうとは思います。でも、同時に、妙な噂でも立って、保護者が忌避して塾に生徒が来なくなったら元も子もないので。」 「です、よね。」 「そういうことも、この先、変わっていくと思いますけどね。変わっていくべきだと思います。」  和樹は頷いて、正面向きに戻った。  しばらく誰も口を聞かなかった。涼矢が曲をかけた。 「あ、これ知ってる。何て曲だっけ。」和樹が聞いた。 「パッヘルベルのカノン。」 「良い曲ですよね。」久家が言った。 「弾ける?」と和樹が聞くと、涼矢は「多分。」と答えた。 「ピアノ弾くんですか?」 「最近は練習してないので、すっかりなまってますけど。」 「小嶋もああ見えて上手なんですよ。ピアノも弾けますが、なんたってチェロが得意です。妹さんはバイオリンの名手。家族みんなクラシックが好きで。クリスマスには友人たちを招いてパーティーをしてくれて、家族で合奏を披露してね。あの車椅子の妹さんも、鈴を鳴らして楽しそうでした。仲の良い一家だったんです。最初は私も、小嶋の友人として、ご家族とも親しくしてもらってました。友人だった頃は。」小嶋はそこで、ふう、と深いため息をついた。「私が壊してしまいました。」 「久家先生……。」和樹また身をよじって、後部座席のほうを見た。 「すみません。」久家は少し声を詰まらせた。「さっき都倉先生にも言った通り、私は何の後悔もない。そして幸せです。でも、たくさんの人を傷つけたのも事実です。後悔とは違いますが、他の方法もあったんじゃないかとは思うことはあります。きっときみたちも、そういうことはこれからたくさんあって。……でも、頑張ってみてください。上手く行くかもしれないし、行かないかもしれないけど、ジタバタする余地のあるうちはジタバタしたほうが、人生は豊かで、きっと楽しい。」 「はい。」和樹が神妙に答える。

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