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第342話 SMOKE(17)

「なんだかんだ言って、亡くなった小嶋の母だって、好き勝手やって亡くなってますから、結構幸せだったと思ってるんですよ。そう言えるのは、私も小嶋も最後までジタバタしたからです。やれることはやりました。それで最後は笑って死んでったお母さんをね、かわいそうだとは思いません。クソババアと思った時もありますけども、毎日一緒にいれば情だって湧きましたよ。息を引き取る瞬間に居合わせたのも小嶋と私の2人だけです。あの妹は後援会の人とパーティーやってて、間に合わなかった。でも、その妹のおかげで、ただのおばあさんが死んだだけなのに、祭壇だって立派だったし、お偉い方々もたくさん来て、盛大な葬式でしたね。あれならお母さんも満足でしょう。お母さん、派手好きの見栄っ張りでしたからね。だから、良いんです。それぞれがジタバタしながら、やっていくしかないんです。分かります? 私の言ってること。講師のくせに説明が下手で申し訳ありません。クソババアだなんて、悪い言葉も使っちゃったね。反省します。」 「分かります。」和樹は頷いた。「ジタバタしてみます。俺も。」 「ひとりじゃだめなんですよ。きみもね。」久家は涼矢を見た。 「俺はジタバタしてますよ、ずーっと。」涼矢は苦笑した。「もうすぐ駅ですけど、どっちですか? 家の前まで行きますよ?」 「いや、駅でいいです。歩いてもすぐだし、明日も早いから、少し夜風に当たって、酔いを醒ましてから帰ります。」  涼矢も和樹もそれ以上無理に送るとは言わず、駅の近くで久家を降ろした。 「お疲れさまでした。きみも、どうもありがとう。せっかく東京まで来て貴重な時間だっただろうに、都倉くんをお借りした上に、こんなところまで送らせてしまって、申し訳なかったです。このお礼は、そのうち都倉先生に。」久家は運転席の涼矢に頭を下げた。 「いえ。」涼矢も慌てて頭を下げる。言いたいことはあるような気がしたが、うまく言葉は出なかった。少なくとも恨み言ではない。和樹のことを、きちんと大事に見ていてくれる大人がいる。それが分かって嬉しい。その大人があなたのような人で嬉しい。そういった意味のことだ。でも、涼矢が何一つ言えないうちに、久家は背を向けて、歩きだした。  涼矢は和樹に「お疲れ。」と言った。信号が青に変わるのを待つ。変わったら、どこかで方向転換をして、今度は和樹のアパートへと向かわねばならない。 「うん。疲れた。何をしたってわけじゃないのにな。座って、寿司食っただけ。」 「寝てていいよ。すぐ着くけど。」 「いや、疲れてるったって、まだ9時台だよ。目は冴えてる。……涼矢はなんか食ったの?」 「みかん。」 「それだけ?」 「ああ。」 「ラーメンでも食って帰らねえ?」 「いいよ。どこでもいい?」 「うん。」信号が青になった。車が動き出した直後に「あ。涼、やっぱ、左。」と、和樹が急に言いだした。 「は?」 「ごめん、先生、追いかけて。」 「今、言うなよ。」発進してしまったものの、ひとつ先の交差点で左折すれば、久家の先回りはできそうだ。 「ゆっくりめに走って。探すから。」和樹は窓の外の歩行者に目を凝らした。 「なんなんだよ。」 「だって、1人だから。久家先生。今までお母さんと小嶋先生が待ってた家に、1人で帰るんだ。酔いを醒ましてとか言ってたけど、久家先生、一滴も飲んでなかった。今思い出した。だからそれは、俺らに気を使って言った嘘で。」 「小嶋先生だっけ、パートナーの人も帰ってくるんじゃないの。」 「小嶋先生は、仮眠室を取ったって言ってたから。」 「……そっか。泊まりか。」 「うん、たぶん。」 「でも、それでどうすんだよ。」 「だって、こんな日に1人なんて嫌じゃん。」 「迷惑だろ。」 「ちゃんと聞くよ。迷惑そうなら帰るし。」 「そんなの、迷惑だとしても、そうは言えな……。」  涼矢が言い終わらない内に、和樹が「いた。」と声を上げた。「ほら、あそこの、コンビニ。今、出てきた。」  涼矢は和樹の指す方向に車を寄せつつ、いったん久家を追い抜くと、停車した。左ハンドルのせいで、運転席の涼矢のほうが歩道に近い。涼矢が窓を開けると、涼矢の体を押しのけるようにして、和樹は叫んだ。「先生。久家先生!」  久家は最初は訝しげに2人を見て、それから呼んだのが和樹だと分かると、目を丸くした。「あれっ。私、何か忘れものでもしました?」久家は自分の手荷物を持ち上げ、確認するように見た。 「違います。あの、やっぱり家まで送ります。だから。」  笑顔を浮かべつつも、いやいやそれは、と拒否の意味で手を振りかけた久家だったが、和樹の必死さに気付いたようで、真顔になり、またすぐに笑顔に戻った。「どうもありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかな。ここからすぐだけど、時間あるなら、お茶でも飲んで行って下さい。」  久家の口頭の案内で、数分後には久家の家の前に着いた。話に聞いていた通りに、ほぼ同じ外観の一戸建てが2軒、並んだ形で建っている。どちらの家の前にも1台ずつの駐車スペースがあり、片方は既に埋まっていたから、空いていた方に駐車した。久家が鍵を開けたのは、車の置いてあるほうの家のドアだ。こちらが小嶋と久家の家で、駐車したほうが親の家なのだろう。玄関先のポストに、控えめに「小嶋英機(久家)」という連名のプレートがついていることに和樹は気付き、涼矢を見ると涼矢も同時にそれに気付いた様子だった。涼矢の家にも、父親の姓である田崎と、母親の深沢、ふたつの表札がある。佐江子用のそれは、田崎の表札とは全く違った材質とデザインで自己主張していたけれど、こちらはマンションの集合ポストに使われるような、没個性的なプラスチックのプレートに、事務的に2人の名前がプリントされているだけのものだった。小嶋がフルネームなのは隣家も「小嶋」だからなのだろうし、法的には小嶋姓になっているはずの久家がカッコ書きになっているのは、今でも「久家」宛てに届く郵便物があるためだろう。そういった、必要最低限の事務的理由のためだけに貼られたプレート。強いて言うなら、この没個性的なところこそが、2人の自己主張と思われた。

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