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第344話 SMOKE(19)

「うちの場合は、私ですね、私のほうがネチネチしてるんです。小嶋は、結構、割り切りが早くて、その点では男らしいのかな。まあ、いいんじゃないですか。足して2で割ってちょうどいいぐらいが。」 「久家先生がネチネチ? 全然そうは見えませんけど。」 「結構根に持つんですよ。なまじ記憶力があるもので、10年前のあの時にきみはこう言ったよね、なんて。」 「うわあ、怖いなあ。」また、つい涼矢のほうを見てしまう。 「だから、なんで俺を見る。」  インターホンが鳴った。 「あ、ラーメンかな。」久家が立ち上がった。玄関に向かいつつ、独り言のように言う。「忘れたほうがいいことも多いんですけどね。人間は忘却の生き物とはよく言ったもので。なんでもかんでも覚えていたら、人生は辛すぎる。」  和樹が久家の後ろに着いていき、玄関先で受け取った皿をテーブルまで運び始めた。涼矢も手伝おうと腰を浮かせたが、男3人が右往左往するほどの幅のない廊下で、結局和樹が運んできたものを、テーブルの上にきれいに並べる作業に専念した。  担担麺に海老塩ラーメン。その他には焼き餃子に焼売、春巻といった点心が並んだ。部屋に戻ってきた久家が取り分ける皿と割り箸を配った。 「ま、このへんのものも適当につまんでください。」久家は点心類を指して言った。 「ごちそうになります。」和樹はぺこりと頭を下げた。つられるように涼矢も同じようにした。  いっとき、特に和樹と涼矢の2人が、麺に集中して静かになった。久家が春巻を食べるカリッという景気のいい音が響く。久家はそうして春巻をつまみながら、ビールを飲み、慈愛に満ちた目で2人を見ているかと思うと、時折ぼんやりと中空を見た。そこに何が見えるのか。亡くなった小嶋の母か。今はその亡骸に寄り添っているであろう小嶋か。それとも全然別の何かか。2人には分かりようもない。 「ああ、飲んじゃった。」久家はそう呟くと、のろのろと立ち上がり、キッチンに向かった。ごそごそと何かを探し始め、戻ってきた時には焼酎のボトルを脇に挟み、グラスとステンレスの魔法瓶を手にしていた。それらをテーブルに並べると、和樹たちの見ている前で、焼酎の水割りを作った。いや、水割りだと思ったそれは湯気を立てていて、お湯割りのようだ。さっきお茶を淹れるのに沸かしたお湯を、魔法瓶に入れておいたらしい。「1人だけ飲んでて、悪いね。」と久家は笑った。 「いえ……。」そう言ったのは涼矢だ。「こんな時に、急にお邪魔しちゃってすみません。しかも俺まで。これ食べたら、俺たち、すぐ帰るんで。」 「邪魔だなんて。」久家は心から驚いた様子だ。「ありがたいですよ。こんな時だからこそ、1人でいなくて済んで。まだきみたち若いのに、よく気が利くなあ、優しいなあって、感激してたんですよ、ずっと。私なんか、こんないい年して、気を使わせてしまって、恥ずかしいったら。」  それが本音なのだとしたら、和樹の気遣いのほうが正解だったというわけだ。涼矢は和樹に感心しつつも、わずかに敗北感のようなものを覚える。ちらりと和樹を見ると、和樹はその視線に気づかないままに「あっちに一緒に泊まらなくて、良かったんですか?」と言った。 「ええ、それはいいんです。小嶋と、きっと理恵ちゃんも、あ、理恵ちゃんていうのは、あの妹のことですが、一緒にあそこにいると思います。下の妹さんは長時間ああいう場にいるのは難しいので、施設に戻ると思うけど、そこはやっぱり、できるだけ、実の、血のつながった家族で見送らせてあげたい。理恵ちゃんだってお母さんとお話ししたいこともあるでしょう。私はもう、充分お話しできたから。」  和樹は自分の質問への回答であるその言葉に、何も言えずにいた。和樹は、久家は小嶋の妹にあんな言い方をされた後のことだったから、小嶋が手配した仮眠室も利用せずに帰ってきたのではないかと危惧していた。売り言葉に買い言葉で意地を張ったのか、あるいは妹の言葉に打ちのめされてすごすごと帰ることにしたのか。そこは分からなかったけれど、いずれにせよ、本心では小嶋に付き添って、一緒に「姑」のそばに「身内」としていたかったはずだと思い込んでいた。 ――違った。そんなんじゃなかった。決して憎み合っているのではないのだ。恨みばかりでもないのだ。久家先生と小嶋先生の親、そして妹との間にあった感情は。あんな一瞬の会話だけでは、俺なんかには分からない何かが、彼らの間にはあったんだ。考えてみりゃ当たり前だ。何十年もかけて出来上がった人間関係なんだから……。  何も言えないままの和樹を前にして、久家はフフッと笑って語りだした。「実はね、理恵ちゃんは私のことが好きだったんですよ。」そこで焼酎のお湯割りをちびりと飲んだ。「今日都倉先生が見た、あの鬼婆のような形相からは想像つかないかもしれないけど、小嶋の家に友人として出入りしていた頃、彼女は実に可愛らしい、才色兼備のお嬢さんでした。私も妹のような存在として彼女のことは可愛がっていましたが、それ以上の感情は持てなくてね。彼女には辛い思いをさせてしまいました。だから、理恵ちゃんのああいう態度はね、私に対しての、可愛さ余って憎さ百倍ってやつなんですよ。……なんてね、彼女に言ったら怒られるなぁ、きっと。いつの話をしてるんだって。」久家は愉快そうに笑い、またちびりと酒を飲んだ。「こうやって、何十年も前のことをネチネチと持ち出すのが、私の悪いところですけども、要するに、そういったこともあって、私は、彼女を嫌いにはなれないんです。」

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