346 / 1020

第346話 いつか晴れた日に(1)

「はい、お待たせしました。と言っても、車までお見送りするだけですけれど。」久家は煙草を揉み消しながら、和樹たちのところに戻ってきた。 「外は寒いんで、ここでいいです。お邪魔しました。」玄関で靴を履きながら、和樹が言った。 「本当に都倉先生は優しいねえ。」 「そんなことないです。」 「親御さんの育て方も良かったんだろうし、きみ自身の持って生まれた性質も良いんでしょう。それから、つきあう相手もね。」久家はにっこり笑って涼矢と和樹を交互に見た。「落ち着いたら、また遊びに来てください。小嶋も歓迎しますよ。あの人、意外と人の世話を焼くのが好きでね。だからこどもに教えるのも好きだし、介護だって、みんなが思うよりあの人の性には合っていたと思います。都倉先生みたいな後輩の面倒なら、そりゃあ喜んでやっちゃいますよ。」 「でも、小嶋先生が一番世話を焼きたいのは、久家先生じゃないですか?」三和土の和樹と、一段高いところにいる久家は、その段差でちょうど同じぐらいの目線になる。ほぼ正面に顔が見える久家に、和樹はそう言って悪戯っぽく笑った。 「言うねえ、きみも。……でもまあ、実際、そうですね。私が一番手がかかる相手でしょうからね。」  そんな会話をして、2人は久家の家を後にした。  久家の家からの、不慣れなはずの帰り道を、涼矢はそう迷わずに車を走らせた。 「道、分かるの?」 「大体。だってほとんど来た道を戻るようなものだろ。」 「ふうん。」 「そっか、方向音痴か。」 「うっせ。」  涼矢はすねる和樹に、声を立てずに笑った。 「まっ、でも、今日は引きずり回して悪かった。運転お疲れさん。」 「運転は別にいいんだけど、想定外のことばっかりで。俺、初対面の人、苦手。」 「ごめん。」 「良い人だったから、嫌ではなかったけど。」 「うん。」 「俺らのこと、言っちゃってるし。」 「ごめん。」 「……言えたんだ?」 「俺は2人のこと知ってて、こっちのことは言わないってのがさ、悪い気がしてきちゃって。」 「まあ、良いんじゃないの。ああいう人なら。」 「けどやっぱり、誰彼構わずオープンにするってのは、難しいよな。久家先生だって塾じゃ内緒にしてるし。」 「まあね。でも、焦ることないって、久家先生も言ってたじゃない?」 「うん。そうだね。」 「俺はさ、それで和樹がちょっとでも楽になれたんならいいなって。」 「ん?」 「和樹、こっち来てから、なかなか言える相手がいなかったみたいだから。」 「……ああ。それはそうだな。一人でも分かっててくれる人がいると思うと、ホッとするっていうか。ミヤちゃんもいるけど、ちょっと、立場が違うから。」 「うん。だから、良かったなって。」 「俺、涼矢が大学でもオープンにしてるの、羨ましかった。だったら自分もそうすりゃいいだけだとは思うけど。」 「俺だって一応言う相手は選んだよ。誰彼構わず言って回ったわけじゃない。俺の場合は、サークルも入ってないし、誰彼構わずってほど周りに人もいなかったから、自然と言いやすかっただけ。」  和樹はふいに涼矢の太腿に手を置いた。 「わ、何、ちょっと、やめて。」涼矢が戸惑った。 「手ぇ置いただけだよ。これ以上変なことしねえよ。」 「あっそ。」 「あれ、それ以上のこと、期待してた?」 「するかよ、マジで事故るぞ。」 「ここで事故って2人とも死んだらさ、俺らはどういう関係だと思われるんだろうね。」 「……。」涼矢は和樹の表情をミラー越しに見ようとしたが、角度的によく見えなかった。 「悪ぃ、変なこと言ったな。」和樹は太腿の手を離した。「葬式帰りだからさ、楽しいってわけじゃないけど、だからって落ち込んでるのでもないよ。今言ったのも、単なる思い付き。深い意味はない。」 「ああ。」それきり2人とも黙って、やがて和樹のアパートの近くまで戻ってきた。涼矢は手慣れた様子でいつものコインパーキングに停めた。和樹がシートベルトを外し、降りようとした瞬間に、その腕を涼矢がつかんだ。 「ん?」和樹が振り返る。  涼矢はつかんだ腕を引っ張って、和樹を抱き寄せ、キスをした。「おかえり。」 「気が早いな。まだ部屋に着いてねえぞ。」和樹は素直にキスに応じつつも、唇が離れると、苦笑した。 「気が早いってことはないだろ。待ちくたびれた。」  和樹は、ふん、と鼻先で笑ってから、「ただいま。」と言い、今度は自分から涼矢に口づけた。  2人して車から降り、アパートに向かった。数日前に涼矢が来た時には豪雨の中、走った道。今は冷え込んだ夜ではあるが、雨は降っていない。あの日とは打って変わって、のんびりと連れだって歩いた。時折指先が触れる。そのうち、和樹が小指を絡めてきた。涼矢はそれをほどこうとはせず、そのままにさせておく。時刻はもうすぐ23時になろうとしているが、この辺りではまだ活動時間帯だ。明かりのついた窓のほうが多いし、昼間ほどではないが、行き交う人も少なくない。だが、男2人が並んで歩いて、小指を絡めているかどうかに注視する者はいない。気付いた者がいたとしても、いちいちそれを取り沙汰されることもないだろう。それを優しさと呼んでいいなら、東京は優しい街だ。涼矢は小指伝いに和樹の体温を感じながら、そんなことを思った。

ともだちにシェアしよう!