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第355話 いつか晴れた日に(10)
「お元気でしたか?」とマスターが微笑む。
「元気です。2人とも。」
「それは良かった。」マスターは2人の前にお冷を置いた。「何にします?」
「今日は食事は済ませてきているから、コーヒーだけ。俺はブレンドにしようかな。」そう言いながら、和樹は卓上メニューが新しい物に変わっていることに気付いた。「ケーキセットがある。」
「ええ、妻がね。こどもの世話があるので、店には出られないんだけれど、ケーキ作りは再開しました。」
その会話を聞いて、涼矢もメニューを覗き込んだ。そこには「ケーキ各種」と書いてあるだけで、具体的なケーキ名が明記されていない。「どんなケーキがあるんですか?」と涼矢が尋ねた。
「日によって違うんですよ。今お持ちしますね。」マスターはケーキやミルクのためのガラス張りの保冷ケースから、皿を出してきた。その上には、1カットずつのケーキが放射状に並んでいる。サンプルとして見せるもののようだ。「今日ご用意があるのは、こちらから、ブラウニー、ベイクドチーズケーキ、キャロットケーキ、チェリーパイです。アメリカのホームメイドスタイルで、見た目は地味だけど、コーヒーに合いますよ。」
マスターの言う通り、フルーツや生クリームできれいにデコレーションされる類の、華やかなケーキではない。
「俺は、キャロットケーキと……コーヒーは、俺も今日はブレンドで。」と涼矢が言った。
「え、じゃあ、俺は、ブレンドと、ブラウニー。」
「かしこまりました。」
「奥さんと、そちらの涼矢くんは、元気ですか。」と和樹が言った。
マスターは手を休めずに答える。「はい、おかげさまで。」
「大変ですね、赤ちゃん見ながらケーキ作るの。」
「そうですね。ケーキは家のキッチンで作っていて、今のところは歩き回らないだけいいけれど、もっと活発になったら、いろいろ危ないですよね。柵でもつけようか、なんて話してます。」
「そっかあ。大変だなあ。」和樹はねぎらいの言葉を繰り返した。
やがて、ケーキとコーヒーが運ばれてきた。涼矢はコーヒーカップを持ち上げると、すぐには飲まずに、しばらくその香りを楽しんでから、口にした。ふう、とホッとしたように息を吐いた。感想の一言も言わないが、その表情を見れば満足しているのが分かる。
和樹はそれを横目で見ながら、普通に一口飲んで、そしてすぐにブラウニーに取りかかった。小ぶりの印象だが、フォークを入れるとずっしりと密な生地で、ナッツも多少入っているようだ。口に入れると濃厚なチョコの味がして、時折ナッツに当たる。食べ応えがあって、このボリュームが適量なことを知る。
「これ、美味しい。濃厚。」和樹はほとんど無意識に、一口大に切り分けた一片をフォークに刺して、涼矢の口元に向けた。涼矢がわずかに目を見開いた。それを見て、自室ではなく、喫茶店にいることを思い出したが、今更引っ込めるのも変な気がして、そのまま、ずい、と涼矢に勧めた。涼矢は和樹から視線を外して、それを素早く食べた。
「ん。」涼矢はほんのり頬を赤らめて頷いた。
「美味いよな?」
「うん。」涼矢は自分のキャロットケーキを皿ごと和樹のほうに寄せた。「こっちも食べていいよ。」
「おまえまだ食ってないだろ。」
「いいから。」
和樹は遠慮せずに三角形のキャロットケーキの先端をフォークでカットして、食べた。皿を元の位置に戻しながら、「意外な味。」と言った。
「そうなの?」涼矢もケーキを食べる。「ああ、結構スパイスが入ってる感じするね。シナモンが効いてて。」
「もっと、あまーいのかと思ってた。大人の味だな。」
「うん、美味しい。こういうの好き。」
和樹はカウンターの中のマスターに「美味しいです。」とわざわざ報告した。
「良かった。そのふたつはうちのケーキの定番なんですよ。」とマスターが微笑んだ。それから、涼矢のほうを向いて「今はお休みなんですか? 冬休み……にしては、早いですよね?」と聞いてきた。
「いえ、そういうわけじゃないです。単なる週末を利用して。」その予定だったが、それを前倒しして早く来たことは黙っていた。
「ああ、そうなんですか。」
「明日には帰ります。」
「和樹くんも、年末は帰るの?」今度は和樹に向かって聞いた。
「はい。夏には帰らなかったんで、初めての帰省。」
「ああ、それじゃあ、おうちの方も喜びますね。」
「どうなんでしょう。俺は、帰りたいような、面倒くさいような。でも地元の友達には会いたいし。」
「そんなものですよね。私も、若い頃は、帰省したって毎日友達の家を渡り歩いて飲んでばかりで、実家には寝に帰るだけでした。下手したら友達の家でそのまま寝泊まりしてきちゃいますからね。母親から、お願いだから元日ぐらいは家にいてくれって言われたこともあったな。」
「出身ってどちらなんですか?」と涼矢が聞いた。
「私は近いですよ。」マスターは具体的な地名は言わずに語った。「日帰りもしようと思えばできる。でも、いつでも帰れると思うと、ありがたみもなくて、5、6年帰らない時期もありましたね。今はもう、両親ともいませんから、里帰りというよりたまにお墓参りに行くだけです。」
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