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第368話 君と見る夢(5)
塾に在籍する一番年長の生徒は15歳だ。自分との差分は、高校の3年間と上京してからの数か月に過ぎない。そこで自分が積み重ねたものは何だ、と自問自答した。高校では勉強も部活も、そして恋愛もそこそこに頑張った。でも、そこそこだ。人に胸を張って言えるほどのことはしてこなかった。こんな自分が先生なんて呼ばれていいものか。バイトを始めた初日、菊池から言われた「最初は慣れなくても、そう呼ばれているうちに、だんだん先生らしくなる」という言葉が、ふいに脳裏をよぎった。本当にそうなんだろうか。確かに最初の頃にあった気恥ずかしさや抵抗感はなくなったけれど、「らしく」振る舞えているんだろうか。
そんなことを考えながら、生徒の顔を思い浮かべる。中学生のクラスに入った時、明生や菜月といった小学生とはずいぶん違う、と感じた。あの年頃の1、2年の違いは大きい。それなら、たった3、4年しか違わないとしても、自分と彼らも、傍から見ればずいぶん違う、のだろうか。もっともそうでなきゃ困る。もっと年の差のある明生も菜月に至っては、まだあどけない、ガキだ。あれと一緒にされるわけには。
そう思った時、涼矢が彼らの年頃に、あの辛い初恋を経験していたことを思い出した。それで釘を刺されたのだ。「こどもだからって傷つかないわけでも、何も感じないわけでもない」と。
自分の初恋も大して変わらない年頃だった。中学生にはなっていたか。モテ期を迎える前のことで、ただ遠くから見ていただけで終わった。その次に好きになった子には勇気を振り絞って告白して、振られた。そういった淡い恋を思い出すのは、ほろ苦いながらも、苦痛ではない。
でも、涼矢は違うのだろう。相手の死によって突然絶たれた恋。しかも自らが選んだ死。それを消化しきれないまま、あいつは生きてきた。当たり前だ、その時の涼矢はまだ小6とかで。哲がいろんなことに傷ついて、自傷行為をしはじめたのだって中学生の頃だって聞いた。
自分と、涼矢や哲との間には、きっと何か、すごく深い溝がある。「分かるよ」と安易に言えない何かがある。でも、どうせ分からないとは言いたくない。分かりたいと思っていることは伝えたい。特に涼矢には。
分かるためには、俺はもっともっといろんなことをちゃんと知らないといけないんだと思う。同じ経験をすることはできないんだから。せめていろんなことを学んで、知って、体験できない分の想像ができる力を身に着けて。そういう風にしか、俺はあいつの受けてきた傷を感じることができないんだから。
塾の生徒のことを考えていたはずが、いつの間にか涼矢のことを考えている。そのことに気付くと、和樹は複雑な気分に陥った。何をしていても、何を考えていても、最後には涼矢だ。結局そこにたどりつく。「もっとしっかりしなくちゃ」と思えば思うほど、涼矢への依存が深まっているような気がする。矛盾している、と思う。
俺はこんな人間だったか? 綾乃やミサキとつきあっていた時、こんな風に彼女中心に世界は回っていたか? そんなはずはない。そうじゃなかったから、彼女たちに振られた。
「あーあ。」和樹は一人でそんな声を出した。何が「あーあ」なのか、自分でも分からない。とりあえず、手にした本を開いてはみたものの、気分が落ち着かなくなって、また閉じた。時計を見た。夜の9時を少し回っている。普段はもう少し遅い時間に連絡することが多いけれど、他にやることもないから、涼矢に電話を掛けた。
「あ、俺。」
――うん。どしたの。
「何が。」
――いつもより早いから。
「別に。暇だったから。」
――あっそう。
「忙しいなら掛け直す。」
――いや、平気。風呂入ろうかと思ってたとこ。
「入れば。」
――別に、風呂は逃げねえし。
「冷める。」
――追い炊き機能付き。
「エコじゃない。ガス代もったいない。」
――和樹も一人暮らしらしい発言をするようになったね。ただ、うちは太陽光発電と深夜電力を利用した給湯システムだから大丈夫なんです。
「おまえたまにマジでむかつくわ。」
――給湯システムにむかつかれても。
「広い風呂に入りてぇなあ。」
――銭湯でも行けば。
「銭湯、500円近くするんだよ。贅沢。」
――たっけぇ。2日にいっぺん入るだけでも月7,500円かよ。だったら、風呂なしアパートで銭湯通いするより、家賃1万円高くても風呂付アパートに住んだほうがいいな。
「どっちにしろおまえにゃ一生縁のない話だよ。」
――2人で入れるぐらいの広い浴槽だとベター。
「おまえどうせ、それをヌルヌル風呂にするんだろ?」
――最高じゃないですか。
「そんなラブホみたいな風呂、落ち着かねえよ。」
――どんな風呂だって、和樹と一緒に入ったら落ち着かないよ。
「そもそも、なんで一緒に入る前提なんだよ。」
――入らないの? 入りたくない?
「おまえね、それ、悪い癖だからな? 誘導尋問みたいにさ。どうせ、俺が入りたくないって言えばショボンとして俺を悪者にして、入りたいって言えば、俺がすげえスケベみたいな雰囲気にして。いっつもそうだ、おまえのやり口は。」
――それで、どっちなわけ?
「人の話を聞けよ!」
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