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第376話 君と見る夢(13)
それでも最後は、今日のイベントは成功裡に終わったと言えるはずだという結論で一致して、和気藹々とした雰囲気の中で食事を終えた。実行委員会としては明日も早くから多くの作業があるので、店を出た後はお互い引き留めるでもない。鈴木と連れ立って去っていく彩乃の後ろ姿を、淋しそうに見つめる渡辺の肩をひとたたきして、和樹もひとり、改札を通った。電車の中でスマホを見て、宮脇からメッセージが届いているのに気付いた。
[今日はごめんね。ありがとう。あの後、話を聞きに来てくれた子たちも結構いたし、パンフレットも減ってた。トックン効果絶大!!]
[こちらこそ。俺がミヤちゃん応援してるのは、本当だからね。今度、俺にもいろいろ教えて]
それだけ返信して、スマホはすぐにポケットにしまいこんだ。
宮脇を応援しているのも、いろいろ教えてほしいのも、本心だ。だが、やはり当事者意識はないままの和樹だった。今日のアドリブスピーチについて、彼は「一番大事なことを言った」と言っていた。HIV感染予防のためにコンドームをつけろというのが、一番大事なことなのか? 和樹にはいまひとつ腑に落ちない。
――ミヤちゃんは、同性同士の恋愛だっておかしくないとか、差別しちゃいけないとか、そういう話をするんだと思ってた。本来の原稿もそうなってたし。確かにHIV予防のことは大事ではあると思うけれど、あの場にいた大半の人にはあまり関係ない気がする。少なくとも俺と涼矢の間ではその心配はない。涼矢は俺が初めての相手だし、それ以前の俺の相手の女の子とだって、そんな、病気になるようなことはしてない。
『あなたもあなたのパートナーも浮気なんかしないし、変な風俗店にも行かないかもしれない。』
――初体験の時は、相手のマユもバージンだった。綾乃の時は、意識して必ずコンドームをつけていた。
宮脇の話と、自分の過去の体験の記憶を行き来しているうちに、和樹は思い出したくないことを思い出した。
綾乃との行為では必ずコンドームをつけていたと断言できるのは、その前につきあったミサキが原因だ。セックスだけでつながっていた、1週間だけの彼女。年上とは言えまだ19歳だったはずの彼女だが、性体験は豊富そうだった。和樹に「性の手ほどき」をしたのはミサキだったと言って過言ではない。彼女とは数回コンドームをつけずに行為に及んだ。彼女のせいにするつもりもないが、「安全日だから大丈夫」と言われたからだ。雰囲気に流されるままに進めて、最後だけ膣外射精で済ませたこともある。
そんな一週間を過ごした後に別れて、しばらく経った頃のことだ。「友達の友達が」から始まる信憑性の低い話ながら『彼女が安全日だと言うのを信じて"中出し"をしたら妊娠してしまい、結局2人とも退学になった』……という誰かの噂話を聞いて、震えあがった。結局は和樹の身にはなにごとも起こらなかったが、そんな経験があったからこそ、綾乃とつきあった時には避妊に相当気を使ったのだし、綾乃も臆せず自分から「つけて」と言えるタイプだったから、雰囲気に流されて、ということもなかった。いずれにしろ、そのミサキにしたって、つきあっていたのはもう2年以上も前の話だ。あの時に万が一感染していたら、とっくに体調がおかしくなっているだろう。
念のための安心感を得るために、和樹は再びスマホを取りだし、「HIV 潜伏期間」そんなワードで検索をかけた。
――HIVに感染してから数年、あるいは10年、さらにそれ以上の期間、症状があまりなく、発病しない潜伏期間があります。
それを目にした瞬間、心臓が、ドクンと脈打った。
和樹はスマホを手にしたまま、西荻窪の駅で降車した。急に気分が悪くなった。ふらふらとホームのベンチに座った。
関係ない、はずだ。和樹は自分に言い聞かせた。ミサキは働いていたけど、いわゆる夜の仕事ではなく、至って健全なアパレルショップの販売員だった。派手な生活もしていない、ごく普通の、女の子だった。ミサキとは、友達の彼女の友達、という関係で知り合ったが、その「友達」も「友達の彼女」も、至って普通の、真面目な子だった。
だから、大丈夫だ。
和樹は恐る恐るさっき見た画面の続きを読む。コンドームはHIV感染予防に有益であること。だが、行為の最初から最後までつけておくべきであること。何故ならいわゆる「先走り」にもウィルスはいるから。更にオーラルセックスでも感染の危険性はあり……。
もうその先を読む気は起きなかった。健全、真面目、普通。そんな言葉を殊更に並べて安心しようとしても、無駄な抵抗だった。当時のミサキの手慣れた様子からして、和樹以前にも少なからぬ男性経験があったと考えるのが妥当だ。だが、そうだとしても、ミサキの健全さや真面目さや普通さを否定することにはならない。積み重ねた男性経験のひとつひとつは、健全で普通の女の子の、真面目な恋だったのかもしれないのだから。その上でなおかつ、だからといって、それならば大丈夫とも言えないのだ。
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