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第380話 君と見る夢(17)

『涼矢を傷つけないで。』 ――傷つけた。たくさん傷つけた。もしこれで俺が陽性だったら、身体的にも傷つけるところだった。知らなかったなんて何の言い訳にもならない。 ――涼矢を大事にしてる、つもりだった。大事にしたかった。時には自分のことよりも。それこそが愛情の証だと思ってた。今なら分かる。「自分を大事にできないうちは」と言った、佐江子の言葉の意味。病気のことだけじゃないんだろう。自分の足場もふらふらしていて、相手を支えられるはずがない。  大学の後は塾だ。生徒の前では、いつも通りの顔をする。暗い顔では声もろくに出ない。それは先週身をもって感じたことだった。先生、今日ね、隣のクラス、インフルエンザで学級閉鎖なんだよ。先生も元気ないね、インフルエンザ? 生徒にそんな言葉をかけられた。その日の午前中にHIV検査を受けていて、気分が沈んでいた。小学生に心配されてどうするとトイレで両頬を叩き、気合を入れて、授業をこなした。無理にでも胸を張って声を出す。そんな風に「形」からでも、それにつられて気持ちも少しは上向くものだと知った。小学生の騒がしさは救いだったし、受験を目前にした中学生の尖った神経は、和樹の背筋を伸ばしてくれた。このバイトをしていて良かった、と思う。  塾からも帰宅して、いよいよ涼矢に伝えるミッションだ。1ヶ月という期限を決めてから、まだ10日程しか経過していない。だからと言って威張れることでもなく、言いにくいことには変わりはない。意を決して、電話をかけた。和樹から電話したい時には、まずはメッセージを送って、かけ放題プランの涼矢に折り返しかけなおしてもらうことが多いけれど、今日はなんとなくそうしたくなかった。かけなおそうかと涼矢は言ってくれたが、断った。 「例のこと、結果が出たから。」 ――例の? 「1ヶ月以内には話すって言ってたやつ。」 ――ああ、あれ。思ったより早かったな。  この10日間も毎日のように電話で話したけれど、涼矢は一切その話題に触れてこなかった。和樹は、その件は忘れているのだろうか、だったらそのまま忘れていてほしい、などと思うこともあったが、やはり涼矢のことだ、忘れていたわけではないらしい。 「とりあえず、クリスマスは落ち込まなくて済みそうだ。」 ――そりゃめでたい。 「クリスマスデートできるわけでもないけどな。」 ――まあ、それはね。でも、すぐ会えるし。 「ん。……それで、さ。」 ――ああ。 「ミ、ミヤちゃんのスピーチ、ミスコンの。」 ――うん。 「ミヤちゃんさ、原稿にないことばかり話したんだ。打ち合わせの時には、差別はよくないとか、そういう内容だったんだけど、実際は、その、セッ。」 ――セッ? 「セックスの時には、コンドームを使おうって。エイズの。あの、HIVの予防のためにって。」 ――へえ。 「ミヤちゃん、昔、年上の男の人とつきあってて、その人にそういうこと教えられたんだって。」 ――そう、なんだ。 「それで、みんなも気を付けろって。女の子も。自分も彼氏も浮気もしなければ風俗にも行かなくて、何の問題もないって思っていても、彼氏の元カノはどうだったか分からない、本人が気付いていないうちに感染しているかもしれないとか。」 ――うん。 「それで、そんな話聞いてたら、俺にも、その、ちょっと、心当たりっつうか。でも、もう、綾乃より前の話で。それも、2、3回あったかどうかで。今、元気だし、大丈夫だとは思ったんだけど、調べたら、10年とか、症状出なかったりするって書いてあって。それで、ミヤちゃんから、不安なら保健所で検査してもらえるって聞いて。」 ――うん。 「ええっと。」 ――和樹も調べたんだ?  見透かすように、涼矢が言った。 「うん。」和樹は小さな声で答えた。 ――ありがとな。 「……えっ?」 ――だってそれ、半分ぐらいは俺のためなんだろ? 俺とのことがなけりゃ、スルーしてたかもしれないんだろ?  和樹は黙った。確かにそうだと思った。涼矢と付き合っていなければ、同性愛のことも、エイズのことも、自分とは無縁のものだった。ミヤちゃんは「サークルにいる、ちょっと変わった奴」というだけの存在だった。スピーチの依頼をすることもなかった。あのスピーチを聞いても、やっぱりピンと来なかったかもしれなかった。心当たりにドキリとしても、とっくに別れた女のための検査は受けなかったかもしれなかった。強いて言えば、自分の体の状態は心配しただろうが、「自分だけは大丈夫」という何の根拠もない自信でごまかして、検査を受けることはなかったかもしれなかった。そうやって考えていくと、確かに、自分だけを愛してくれる涼矢のために、検査を受けたのだ。  ふいに和樹の目に涙があふれ、こぼれそうになった。「陰性だった。」すんでのところで涙をこらえて、震える声でそれだけ絞り出した。涼矢はこの結果を聞く前に「ありがとう」と言ってくれた、その意味が、胸にこみ上げた。

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