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第391話 Sweet Dreams(9)
「来てます。」同い年とは知っていたが、つい敬語になる。「哲、成績は常にトップクラスです。」
厨房の3人は、涼矢のその言葉に目を丸くした。
「おいおい、個人情報勝手にバラすなよ。」気付かないうちに背後に哲が立っていた。
「じゃあ、三七十に勉強教えてんのって、マジなのか?」六三四が言った。
「そうだって前から言ってるじゃんよ。」
「三七十、もう就職してるだろ。何を勉強してんの?」と、今度はゲンさんが六三四に言った。
「よく知らねえ。」と六三四がぶっきらぼうに言い、その代わりに哲が「税理士目指してるんだよ。六三四のオニイチャン。」と答えた。後半は涼矢への説明だろう。
「税理士の勉強をおまえが教えてるの?」と涼矢が哲に聞く。
「そう。司法試験の勉強とも結構重なるからね、自分の勉強も兼ねて。ま、三七十の勉強手伝うってのが、ホテル有栖川の宿泊費みたいなもんだな。」
「ホテルって。」六三四が笑った。思えば涼矢が六三四の笑顔を見るのは初めてだ。仕事中は常に怒ったようないかつい表情だし、仕事以外の場で会ったことがない。笑うと案外可愛らしい顔になる。「それだけじゃねえだろ、モモの子守とか。」
「あれは俺がモモに遊んでもらってんの。」穏やかに笑う哲。これもまた、初めて見る笑顔のような気もした。元から口角の上がった顔立ちの哲は、常に笑顔のようでいて、心から笑っていることは少ないのだ。涼矢は急にそんなことに気が付いた。
「あの。」涼矢が切り出した。「それじゃ俺、これで失礼します。」
「またいつでも飯食いに来いよ。」というセイさんの言葉に頷いて、涼矢は厨房を後にした。
ホールに戻ると、コートも着てすっかり帰り支度を整えた佐江子が立って待っていた。涼矢は「お疲れさまでした。」とアリスに言って、佐江子とともに店を出た。
車の中で、涼矢のほうから佐江子に話しかけた。「アリスさんとこの六三四?……彼は、えっと、不良だったり、した?」六三四の腕には、鮮やかな鱗を持った、細長い身がうねっていた。頭部こそTシャツの袖に隠れていたが、あれはおそらく登り龍だった。
「そうみたいね。一番荒れていたらしい頃は、私も忙しくて少し疎遠になってたから、詳しくは知らないんだけど。」
「でも、今は立ち直ったんだ。」
「うん。単なる不良というよりはもっと……暴力団とも面識が出来る程度には悪かったから、ここまで来るのは大変だったと思うよ。薬に手を出していなかったのがせめてもの救いね。まあ、一番はこどもなんでしょうね。彼女に赤ちゃんができて、変わったみたい。」
「お兄さんは税理士目指してるって聞いた。言い方悪いけど、随分違うんだね、兄弟でも。」
「そうね。……そうなった原因のひとつには、あの、アリスの女装があって。アリスのあれは営業用で、普段は男の人の格好してるし、学校行事の時もそうしてたらしいけど、どこかの保護者が偶然お店に来て、バレちゃった。と言っても別にアリスは隠してるつもりもなかったんだけど。六三四くんはそれを中学校でからかわれたみたい。お母さんは台湾出身で普段アリスとは中国語で会話していたものだから、日本に長く住んでた割に日本語の細かいニュアンスとか理解することが難しくて……ママ友って言うの? 母親同士のネットワークもうまく作れなかった。私もそんなネットワークはなかったけども、アリスのところは、いろいろなことが悪いほうに重なっちゃったのかな、六三四くん、だんだん学校に行かなくなって。」
「アリスさんが女装を辞めるって選択肢はなかったの? こどもがいじめられてるなら。」
「アリスはそういうところ、絶対曲げないから。外見で判断して馬鹿にする方が悪い、正々堂々としてろって言って、譲らなかった。正論だけど、思春期の男の子には、キツかったと思う。結局彼は、家にも居場所をなくしたように感じたんでしょうね。半ば家出状態になって、いろいろ悪さするようになった。……誰の責任かって言うなら、親なんでしょうね。特にアリスの。」佐江子はそこで一拍置いてから、言った。「私にアリスを責める資格はないけど。」
涼矢がそれに返事をするより前に、車は家に到着した。
その数時間前の東京。
和樹がクリスマスイブに新宿になど来たことを後悔し始めていた。初めての帰省に際して、実家に何かお土産を、と思って、どこに行けばいいのか迷った末に新宿に来た。デパ地下で東京銘菓でも買っていくつもりだった。だが、改めて考えたら、東京銘菓と言ったら何かも知らない。
うろうろした挙句何も買えなくて、和樹はとりあえずデパ地下の人口密度から脱出したくて1階に出た。1階は化粧品売り場だ。高そうな海外ブランドが並ぶ中を、目的もなくさまよっていると「プレゼントですか」と声をかけられた。和樹は美容部員が今から勧めようとしているコンパクトの蓋についたロゴマークを見た。見覚えがあった。高校時代の文化祭で、舞台メイクをするからと言って、母親の恵に借りたメイク用品に同じマークがついていた。恵は「高かったんだからね。お粉を無駄に使い過ぎないで。口紅も出し過ぎると折れるから、少しずつ繰り出して、紅筆使ってよ。」といくつもの注意を挙げ連ねたものだ。
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