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第396話 bless you! (1)

「おかえり。」涼矢が言う。 「ただいま。」和樹はそう言うなり、涼矢の顔を引き寄せて、キスをした。駅前の大通りからは1本裏に入るだけで、交通量がぐんと減り、視界の限りには歩行者など一人もいない。  涼矢は少しだけ照れくさそうにして、それを誤魔化すように「うちに直行でいい? どっかで昼飯食っていく?」と言い、車を発進させた。 「○○亭のカツ丼食べたい。」 「懐かしい。」  それは2人の高校時代、部活仲間でごくたまに行った丼物専門店だ。よく行く店、ではなく、ごくたまに行く店、だったのは、安くてボリュームがあることを売りにした店ではなく、高校生が行くには高級な価格帯の店だったからだ。大事な試合前の願掛けや、良い結果が出せた時のご褒美としてのみ、行けた店。和樹が今食べたがっているカツ丼であれば、1,500円ほどもした。 「ごちそうしてくれる?」と和樹が言うと、涼矢はあっさりと「いいよ。」と答えた。  和樹は笑って「甘いなあ、俺に。」と言った。 「遠路はるばる、新幹線代もかけて、帰ってきてくれたわけだしね。」 「味噌汁、豚汁にグレードアップしてもいい?」カツ丼についてくる味噌汁は、プラス100円で豚汁に替えることができた。 「いいですよ。」 「そんならついでに、ロースカツ丼じゃなくて。」 「上ロースカツ丼ですね。はいはい、いいですよ。」 「激甘。」 「あー、でも、煮豚作ったから、豚肉続きになるなあ。」 「煮豚?」 「うん。豚の角煮的なやつ。」 「じゃあ別物だよ。揚げ物と煮物だろ?」 「和樹がいいならいいけど。」 「いい。」 「オッケー。それと、夕飯は佐江子さん同席予定。」 「うん、いるつもりで考えてた。」だから、口紅も買った。でも、まだ、言わない。 「なら、よかった。」 「佐江子さん、1階だよね?」 「へ?」 「寝る時。」 「……ああ、うん。親の寝室は1階。」 「そんなら、いい。」 「やーらし。」 「なんのために、帰省して真っ先におまえんちに行くと思ってんだよ。」 「……和樹、声デカいから、気を付けてね。」 「それは涼矢くん次第。」 「だから言ってる。」 「は?」  ちょうど赤信号で停まったところで、涼矢は和樹を見た。「自分の部屋でヤるのに、遠慮も配慮も、できないよ?」 「りょっ……。」一瞬で顔を真っ赤にして、先に目をそらしたのは和樹だった。 「ほら、もう、可愛い。」涼矢は和樹の頭をくしゃりと撫でた。  その手をなぎはらい、だが、相変わらず視線はそらしたまま、和樹は言った。「バッカじゃねえの。き、聞こえたら、どうすんだよ、おまえが困るだろ。」 「困るな。」信号が青に変わり、涼矢は再び車を走らせる。「とても困るから、おまえは頑張って、我慢して。」  その言葉に和樹の体はビクリと震えてしまって、一番驚いたのは和樹本人だった。そんな反応に涼矢が気付いていないことを願いながら、そっと横目で涼矢の様子をうかがうと、普通に前方に集中しているようで安堵した。  間もなく車は和樹がリクエストした丼の店の駐車場に入り、停車した。  昼時で混雑しているかと思ったが、タイミングが良かったようで、すぐに座れた。それも一番奥の、4人掛けの広いテーブルで、落ち着いて過ごせそうだ。会社の昼休みに食べに来た風情の会社員の多くは、狭いカウンター席で肩を寄せあって、慌ただしく食べている。  上ロースカツ丼と豚汁を二人前。涼矢が注文する。注文してから揚げはじめるから、少し時間がかかる。「分厚い豚肉を低温で時間をかけてじっくり揚げることにより、肉のうまみを最大限に引き出します」、そんな宣伝文句も卓上メニューに書かれていた。お冷の代わりのほうじ茶だけが先に出てきた。 「久しぶりだなあ。いつぶりだろう。」 「最後の大会じゃない?」 「そっか。涼矢も? あれ以来ここには?」 「来てない。」  その時は、顧問やOB達の奢りということで、上ロースなんて頼めず、一番安い豚丼かメンチカツ定食のどちらかしか選ばせてもらえなかった。 「俺、豚丼だった。」と和樹が言った。 「俺も。」 「懐かしいな。」さっき涼矢が言ったセリフを、今度は和樹が口にする。「みんな、元気かな。」 「奏多とか?」 「……うん。」  和樹はまだほんの少しだけ、奏多に対してわだかまりを感じている。自分たちの学年の部長。それにふさわしい、信頼できる奴だと思っていた。けれど、水族館で偶然鉢合わせた、あの日の態度。 「会いたいなら会えばいい。」涼矢が言った。「柳瀬にも言われてる。おまえがこっち帰ってる時には教えろって。」 「柳瀬は……まあ、どっちでもいいけど。」 「奏多は嫌なんだ?」涼矢は和樹の顔をじっと見る。「俺たちのこと、良く思ってくれてないから?」 「涼矢は、平気なの?」 「おまえが平気じゃないなら平気じゃないし、平気なら平気。」 「ずるいな。」と和樹は笑う。「つぅか、会って、はっきり宣言してやりたい気もするし。微妙。」 「宣言?」 「おまえのこと、好……。」言いかけたところに、上ロースカツ丼が来てしまった。 「お待たせいたしましたぁ、上ロースカツ丼でございます。こちら豚汁です。熱いので気を付けてくださぁい。」

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