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第397話 bless you! (2)
食べ始めて間もなく、店が急に閑散とした。店の壁の時計を見ると12時50分。会社員たちが一斉に職場に戻っていったのだろう。だが、13時を少し過ぎると、今度はあえてピークを外してやってきたらしき地元の年配者や幼児を連れたママ友のグループ客が入ってきたりもして、静かだった時間はほんの束の間だった。混雑のピーク時は黙々と食べている1人客が多かったから、今のほうがよほど、賑やかだ。
そのざわめきから少しだけ逃れられる奥まったテーブル席で和樹が聞いた。「柳瀬と約束してんの?」
「いや、別に。でも、あいつんちもうちと同じで、正月もずっと自宅だから、呼べばすぐ会えるよ。」
「彼女とまだ続いてんのかな。あの、最初は涼矢に紹介しようとしてた子。」
「知らないけど、何も言ってこないからうまく行ってんじゃないの。別れてたら、遊ぼうだのなんだの、うるさいはずだから。」
「さすが幼馴染み。よく分かってらっしゃる。」
「おまえだって大体想像つくだろ、あいつなら。」
「確かに。」和樹は笑う。
その時、和樹はふいに足元に何かが当たる感触がした。テーブルの脚にでも当たったかと思って足の向きを変えてみるが、そんなことではないことにはすぐに気付いた。
「おい。」和樹は涼矢を睨んだ。テーブルの下で、涼矢が足を伸ばして、和樹の足にじゃれついていた。
「何?」
「やめろよ。」
涼矢は靴先で器用に和樹のズボンの裾をまくりあげ、更に靴下をずりさげた。
「涼、いいかげんに。」言いかけたところで、また店員がやってきた。
「お茶のお替わり、失礼しまぁす。」2人の湯のみにほうじ茶を足して、去っていく店員。その間も涼矢のちょっかいは止まらなかった。
「やめろってば。」
「見えないよ、ここ、奥だし。」
「何考えてんだよ。」
「いやらしいこと。」
和樹は足を可能な限り引っ込めた。「やめなさい。」
涼矢はようやく足を止めて、しかし、ちっとも反省していないような笑顔だ。「久々なんだから、このぐらい浮かれさせてくれても。」
「こういうとこで、やめろよ。」
「じゃ、これ食べたら、2人っきりになれるとこ、行こう?」
「おまえん家だろ?」
「それももったいなくない?」
ホテルでも行こうと言うのか。そう聞き返したいが、壁側を向いている和樹からは、店員や他の客の動向が分からない。さっきのように不意打ちで店員が来るとも限らないので、言葉に出すことは躊躇われ、黙った。聞いても、聞かなくても、どうせ涼矢は自分の好きなようにするんだろう、という、諦めの気持ちもあった。
これを食べ終えたら、と涼矢は言ったが、もうその時にはカツ丼も残りわずかで、今更それを引き延ばしたって意味がない。和樹はそれまでのペース配分のまま残り2口を食べ、涼矢もほとんど同時に、最後の漬物を食べた。
会計を済ませ、車に乗り込む涼矢は、いつも通りの澄まし顏だ。どこへ向かうとも言わずにエンジンをかけるから、このまま当初の予定通りに涼矢の家に向かう気がした。さっきのあの会話は単なるジョークだったのかもしれない、と和樹は思った。
「荷物、少ないね。」涼矢が言った。
「行きと帰りの服さえあれば、なんとかなるし。自分ちに帰るんだから。」
「それもそうか。」
「おまえなんか、10月の時は着の身着のままだったじゃない。」
「そうだったね。」
「でも、俺の部屋、物置になってるんだろうなあ。俺が出ていく前から、扇風機とかセラミックヒーターとか、季節用品じゃんじゃん詰め込まれてたもん。」
「はは。」
「淋しかったんだってさ。」
「え?」
「おふくろが。俺が出てった部屋、ガランとするのが、嫌だったって。」
「ああ……。それは少し、分かる、かな。」
「俺だって分かるよ。おまえが来て、帰った後、とか。」
「和樹さ。」
「ん?」
「うちで……その、東京行く前にね。」
「ああ。いろいろヤりましたねえ。」
「部屋でも風呂でも、家中のどこにいても、そのことを思い出すようにって、おまえが。」
「ああ、言いましたねえ。」
「あれ、結構、本当に、そうで。」
「へえ。」和樹は空咳をひとつする。「ま、俺も、台所でたまに思い出したりするわ。」
「ああ、あれねえ、うん。」涼矢はしばらく黙り込む。
「反芻してんじゃねえぞ。」
「おまえが思い出させたんだろ。」
「それで、何だよ。それがどうしたっつうの。」
「だからね、そういう、思い出の場所を増やそうかなって。」
和樹は、どういう意味だよ、と聞こうとして気付いた。車が涼矢の家に向かっていないことに。途中までは確かにその方向だったはずなのに。まさか本当にラブホに向かっていて、そこを思い出の場所にするとでも?
「これ、どこに向かってるんだ?」
「思い出の場所。」
「誤魔化さないで言えよ。」
「もうすぐ分かる。」涼矢は少し微笑んでいる。でも、それでいて、ウキウキとはしゃいでるわけでもない。そして、こういったことが過去にもあった気がした。
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