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第399話 bless you! (4)

「平気だと思う。それを確かめたい。」  揺るぎない意志を涼矢の目の中に見て、和樹は歩き出した。その後もずっと、和樹が前を歩いた。いつもよりゆっくりと歩を進めた。もやもやとした気分で歩き、時折波が思いがけず寄ってきては、わずかに靴を濡らした。  やがて2人は、数年前には涼矢が1人で訪れたポイントにまでたどりついた。涼矢はぐるりとまわりを見渡し、それからまた海の遠くに目をやった。この浜辺に到着した時よりも少しばかり日が落ちていて、西の空がほんのり赤みを帯びてきていた。 「ああ。」と涼矢が嘆息をついた。 「どうした?」和樹は涼矢と並んで、海の遠くを見た。そこに何が見えるのかを見ようとした。  涼矢は突然右手で口を覆った。それから見る間に目に涙がたまった。呼吸がせわしくなったかと思うと、ひっと息が詰まるような音を出す。  過呼吸の症状だということは和樹にもすぐ分かった。「おい。」和樹は涼矢の肩を抱く。「ゆっくり、息吐いて。大丈夫だから。」涼矢のこわばった背を撫でる。「俺、いるから。大丈夫だから。少しずつ、ゆっくり、息、吐いて。」大きな声を出したくなるのをこらえて、極力優しい声で語りかける。塾の生徒もたまにこんな症状を見せる。思春期のこどもたちは心身不安定で、過呼吸も熱中症も貧血で倒れるのも、目の当たりにしてきた。  やがて涼矢は落ち着きを取り戻し、呼吸も整った。和樹の体を支えにして、自分の姿勢もまっすぐ立て直すと、言った。 「思い出した。」 「何、を。……いや、いい。無理すんな。思い出さなくていいことだって。」和樹は必死に語りかけた。涼矢にその声が届いてるのかは分からない。いったんはしっかりまっすぐ立っていた涼矢は、再びぐらりと揺れて、ついにその場に崩れるようにしゃがみこんでしまった。和樹も慌ててその隣にしゃがみこむ。呼吸が乱れている様子がないことに少しだけ安心した。顔色もそう悪くない。 「美術部の先輩だった。」 「えっ。」 「その時、好きだった人。中学でも俺、水泳部だったけど、美術部も考えてて。結局水泳部に決めたけど、体験入部の時に相手してくれた先輩がいて。その後、廊下で会った時に、やっぱり水泳部に決めましたって、一応、伝えたら、でも、いつでも見に来ていいよって。」震える声だが、泣いてはいなかった。顔は砂の地面を見ているような角度になってはいる。しかし、目の焦点はそこには合っていないようだ。「それで、俺、本当に、練習がない日とか、時々、美術室に行って、先輩の絵を見せてもらってた。その人、パソコンでも絵を描いてて、その人に俺、そういう、イラスト描く用のソフトのことも教えてもらって。いろいろ詳しくてすごいですねって言ったら、スイスイ泳げるのだってすごいって言ってくれた。」涼矢は和樹に聞かせるというよりは、思い出したことを忘れないうちに言葉にしておきたい、という衝動で話し続けていた。「先輩、小児麻痺の後遺症があって、中学の頃には日常生活には困らない程度になってたけど、階段の上り下りや運動はみんなと同じペースで動くのは無理で。それで、自分にも得意なものがあったらいいなと思って、そういうパソコンとか絵とか勉強したって言ってた。」 「そう、か。なあ、無理して思い出さなくたっていいこともあると思うよ。本当に大丈夫か?」  その人のことはよく覚えていないのだ、と涼矢は言っていた。『なんでもかんでも覚えていたら、人生は辛すぎる』と久家先生は言っていた。和樹は、思い出すことで涼矢が苦しむことになりはしないかと危惧していた。 「……うん。大丈夫。」涼矢は顔を上げた。遠い水平線を見た。「先輩は海の絵を描いてた。それはパソコンじゃなくて、油絵のほうで。美術室で、部活のない日でも、毎日。俺はそれがだんだん完成していくのを見るのが楽しみで。俺もそういう絵が描けるようになりたいって、そう思った。」  和樹は海を見た。さっきよりも更に日が傾いていた。海の青。茜の空。それは、今では涼矢だけの思い出じゃない。 「じゃあ、あの、おまえが初めて一から描いたっていう、あのイラストって、先輩の絵の思い出、みたいな?」 「そんなつもりはなかったけど。今、この風景を見たら、そうだったのかもって思った。それだけじゃないけど、そのことも含まれてるんだ、きっと。」 「海じゃ死ねないって思ったって、言ってたな。」 「そう。……そうだ。俺、泳げるし。海じゃ死ねないって。」 「スイスイ泳げるから。」和樹は先輩の言葉を使って言った。 「うん。それと、その絵を思い出した、と思う。その絵の完成が見たかった。それから、その絵に描いてある海を汚しちゃいけないって思った。俺が海で死んだりしたら、先輩、あの絵の続き、描けない気がした。」 「先輩が、ここに来た時の、おまえを。」 「助けてくれた、かな。こじつけかもしれないけど。でも。」 「あとさ、きっと、例の家庭教師(カテキョ)の先生とかもね。」  涼矢は海から和樹へと視線を移した。和樹の顔を凝視した。「なんでそう思うの?」

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