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第404話 春を待つ (1)

「あ、はい。塾の講師。」 「あら、先生なのね。宏樹くんと一緒だ。」  兄貴のことを既に名前で呼んでるのか。和樹はそこに驚きと恥ずかしさを感じる。若干の抵抗感も。何に対する抵抗感なのだろう、と思う。「兄貴とは全然違いますよ。週に数時間だけだし、決まった教え方でテキストをただこなすだけで、教材研究するわけでも、生活指導するわけでもない。担任とか部活顧問とかないし。」 「へえ?」佐江子は楽しそうに和樹を見る。少し試すような表情がそこに入り混じる。「お兄さんを尊敬してるのね?」 「え?」なんでそんな話につながるんだろう。 「塾でも、学校でも、人に教えるのって難しいでしょ。先生の仕事を大変ですねって言う時は、大抵の場合、授業のことだけ、勉強を他人に教える技術があるなんてすごいねって言ってるのよ。でも、和樹くんは、ちゃんと学校の先生のお仕事全般を見てるのね。それって、宏樹くんのことをよく見てるし、すごいと思っているってことだと思うわ。」 「あ……。いや、大学で教職取ってるから、そういう話も、聞くし。兄貴がどんな風に仕事してるのかは、具体的にはほとんど知らないです。兄貴が実際教師になった時には、俺、東京だし。教育実習の頃、親と話しているのを聞いて、大変そうだなあとは思ったけど、そのぐらいで。」 「大変そうだなあって思ったのに、教職取ったんだ? 教育学部ではないのよね?」 「経済です。うーん、そうですね、そんなに深くは考えてなかったんですけど。文系で取れる資格って何かなって思ったら、英検か教職ぐらいしか思いつかなくて。文系のくせして語学は苦手だから、とりあえず教職。」 「資格って、就職対策という意味で?」 「そう、それもあります。けど、それより……涼矢はほら、司法試験があるじゃないですか。だから、俺も何かって思って。だからって別に教師目指してないけど、せっかく大学まで行かせてもらうんなら、ひとつぐらい資格取ろうかなって、それだけなんです。」 「まあ、今の聞いた、涼矢?」 「あ? 教職? 俺はそこまで手、まわんない。今だって時間足りないのに。」 「違うよ、大学まで行かせてもらうってところ。あなたは、親に対してそういう感謝の念が足りないと思うのよね。」 「いつもありがとうございます。」涼矢が棒読みで言った。 「これだから。」佐江子は笑った。「世の中には苦学生だっているのにねえ。前にうちに泊まった子もそんなこと言ってたわ。麻生くんだっけ。」 「麻生。」小声で繰り返したのは和樹だ。「麻生、哲?」 「そうそう、哲くん。今、私の友達がやってるレストランでバイトしてる。ああ、さっき言った、この子がクリスマスの土日だけ、バイトした店ね。」 「あいつのことはいいんだよ。」と涼矢は不機嫌を隠さずに言った。 「見ましたよ、バイトしてる時の写真。哲から、涼矢の写真、送られてきたから。」和樹が言い出した。涼矢ではなく、佐江子に向かって、だ。そのことで昼間、軽い喧嘩をした。カツ丼の店を出てすぐのことだ。イブの夜、突然哲から送られてきた写真。そこには女の子と2人で、にこやかに笑っている涼矢が写っていた。その写真は気に入ったが、哲から送られてきたことが気に食わなくて、どういうことだと涼矢に詰め寄った。結果的には、店のイベントの時に哲が勝手に撮って勝手に送ったということが分かって、大喧嘩には至らなかったが。 「そんなのあるの? 私もその場にいたのよ、そっか、私も撮っておけば良かったかな。涼矢はいっつも、学校行事でもなんでも、絶対来るなって言うから、うんと小さい頃の写真しかなくて。」 「呼んだって来ないじゃないかよ。」 「なんだ、来てほしかったならそう言えばいいのに。」  涼矢が佐江子に何か文句を言いたげに、身を乗り出そうとした気配を察して、和樹が佐江子に言った。「転送しましょうか? よく撮れてますよ。」 「おい。」涼矢の矛先が和樹に変わる。 「これなんですけどね。」和樹はスマホを佐江子に見せた。 「おい、和樹。」  涼矢は手を伸ばして制止しようとするが、それより先に、佐江子は画面を見た。「あらホント、よく撮れてる。この女の子がビンゴでワイン当てた時でしょ。確かこの子も大学の友達よね? 哲くんが紹介してくれたわ。涼矢はしてくれなかったけど。」 「あいつはどうしてそう、余計なことばっかり……。」 「おまえが甘やかすからだろ。」 「どこが。」 「仲が良いのは結構だけど、これ、食べてもいいよね? 私、お腹ペコペコなんだけど。」  佐江子がそう言って、ようやく食事らしい食事が始まった。  料理があらかた3人の、主に涼矢と和樹の胃の中に消え、ワインがボトル1本まるまる佐江子の胃に収まったところで、佐江子が言う。 「後片付けぐらいはしておくから、お風呂でもどうぞ。和樹くん、着替えは持ってきてる? なかったら、涼矢の適当に。」 「大丈夫です、あります。」とりあえずの1組だけだが、持ってきている。 「お風呂はね、その戸の向こう。」 「はい。」浴室の在り処なら知っている。そして、そのことを佐江子も分かっているはずだとも思う。何せ明らかにベッドを共にした翌朝の、半裸の姿を目撃されているのだ。素朴に教えてくれているだけなのか、何らかのカマをかけられているのか、佐江子の表情からでは判別できなかった。それは今に限らないことではあったが。

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