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第405話 春を待つ (2)
和樹のバッグはリビングの片隅に置いたままだったから、そこから着替えを出して、浴室に直行した。本音を言えば、まずは涼矢の部屋で2人きりになりたかった。しかし、佐江子に風呂を勧められては、そうもできない。
風呂から上がると、佐江子だけがいて、涼矢の姿はなかった。
「涼矢なら部屋にいるから。」
「あ、はい。」少し、いや、だいぶ気まずかった。そそくさとリビングを出ようとすると、佐江子に呼び止められた。和樹は顏だけ振り返る。
「ちょっとだけいい?」
佐江子の言葉に緊張しつつ、和樹は全身を佐江子に向けて、直立不動の姿勢になった。
「ありがとう。あの子のこと、好きになってくれて。」
「……えっ。」
「なかなか言う機会もないから、言っておきたかった。」
「そん……別に、俺。」和樹は歯切れ悪く、口の中でもごもご言うしかできない。
「これからもずっとうまく行くかどうか、分からないけれど。ああ、もちろんうまく行けばいいと思ってるのよ。でも、人の気持ちって変わるものだし、環境とかタイミングとか、いくら好きあっていてもダメになる時もあるから。でも、もしダメになっても、あなたが今までにあの子に与えてくれたものは、変わらないから。感謝してる。」
「俺が与えたもの、なんて。」
「それが何かは私にもうまく言えない。でも、あの子は確かに変わったの、良い方向にね。あなたのおかげだと思ってる。私の言いたいことはそれだけ。あなたは何か、言いたいことがある?」
「いえ。」和樹はいったん黙る。そして部屋を出ようとして、また、立ち止まり、振り返った。「母親みんなが、そんな風に思ってくれるわけでは、ないですよね?」
佐江子はわずかに目を見開いた。珍しく動揺をしているように見えた。「そうね。おそらくあなたのお母様は、私のように考える方 ではないと思うわ。」
「ですよね。」和樹は落胆する。答えの分かっている質問だった。それでも、がっかりした。
「でも、私だって最初からこんな風に思えたわけじゃない。今だって、あなたたちが期待するような理解ができているのか、正直、自信なんかない。」
自信がない。それは佐江子にもっとも不釣り合いな言葉に思える和樹だった。佐江子はいつも悠然と構えていて、論理的で、迷いがないように見える。
「だからこそ、私はお母様ともうまくやれるとも思うわよ? 迷いがあって、自信のない母親同士だから、寄り添えることだってある。ご両親に伝えたい、理解してもらいたいと思う時が来たら、涼矢とよく話し合って。もし、2人だけではどうにもならないことや、私に何かしてほしいことがあったら、言って。一緒に考えるし、やれるだけのことはする。約束する。」
涼矢の幸せのためなら何でもするから。そんな佐江子の声が聞こえた気がした。おふくろは――俺の母親は、この人と同じように思ってくれるんだろうか。おそらく、思ってくれる。我が子の幸せのためなら命だって惜しくない、本気でそう言ってくれそうな母親だと思う。
ただ。
俺の望む「幸せ」は、おふくろの思う「幸せ」とは違うのだろう、と思う。それが一致する日は、まだ遠いと思う。
和樹は黙って頷いた。ありがとうございましたと言うべきなのだろうか。それとも、よろしくお願いしますとでも? いろいろ思い浮かぶ言葉はあったが、口にできなかった。
二階に上がり、涼矢の部屋に入る。「風呂、どうぞ。」
「ああ。」涼矢は既に用意してあったらしき着替えを手にする。
「あ。」
「ん?」
「メガネ、外しちゃったのか。」
「え、今それ言う? 車停めた時に外して、今は車の中だよ。食事の時に気が付かなかったのか?」
「……緊張してたんだよ。」
「おふくろ相手に?」
「当たり前だろ。」
「あんなのまで見られておいて。」
「だからだよ、これ以上悪く思われたくねえもん。」
「心配するなよ、充分気に入られてるから。」涼矢は苦笑いして、和樹の脇を通り過ぎる。そこで立ち止まった。「その服、明日着て帰る用じゃないの?」
「そうだけど?」長袖のTシャツに、柔らかいコットン素材のズボン。ゆったりとして、カジュアルではあるが、スウェットやジャージの生地ではない。
「パジャマじゃないだろ。これ着れば。」涼矢は持っていたスウェット上下を和樹に押し付けて、自分は新たに箪笥を物色しはじめた。
「いいよ、別に。」
「家の人には、俺んち寄ってから帰るって言った?」
「は? 何を突然。一応、昨日、ちらっと言っておいたよ。言わないつもりだったけど、後でバレても却って面倒くさいかなって思ってさ。」
「じゃあ、ますますだ。その服着て寝たら、よれよれのシワシワだぞ。そんなんで帰すわけにはいかない。」
「実家帰るのに、そんなの、どうだって。」
「おまえはそうでも、元モデルは気にするだろ。」
確かに、母親の恵は、服の皺やシミや、そういったものには敏感だ。
「分かったよ。……おまえ、妙なことには、よく気がつくな。」
「俺だって、おまえの親の心証はよくしておきたい。」真顔でそんなことを言う涼矢だった。
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