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第411話 春を待つ (8)

「あいつが言ったの? 涼矢に?」和樹は顔を上げた。明らかに憤慨している。「そんなの、やつあたりじゃないか。あいつがかわいそうなのと、おまえが高い車乗ってるのは、関係ない。」 「でも、言い返せなかった。和樹とも金のことで喧嘩しただろ? だからきっと俺、そういう、鼻持ちならない感じっていうか、ほかの人を苛立たせてしまうところがあるんだと思った。そう思ったら、反論も何もできなくて。そう思ってたら、哲が謝ってきた。今和樹が言ったようなことをさ。あいつんちが貧乏暮らしだったことと、俺がそうじゃないってことは関係ないのに、あんな言い方して悪かったって。」  既に哲が謝ったと聞いても、それならいいとは思えない和樹だった。それどころか余計に腹が立つ。哲が自分の考えの先を行くことに。「謝ればいいってもんじゃないだろ。」哲をやつあたりだと責めた和樹は、今度は自分がやつあたりするように、そう言った。 「そう、謝ればいいってもんじゃない。」涼矢が遠い目をするので、和樹は胸騒ぎを覚える。涼矢は何かを思い出している。それはたぶん、俺には伝えていないこと、だ。そんな風に言い合いをして、それがどうして、ハグして寝ることにつながるんだ。それについては、最初に聞いた時から、気になってはいた。哲は布団に入ってから、過去の自傷癖や倉田さんと別れてからの不眠のことを語り、そんな哲を放っておけなかったのだと、涼矢は言っていた。それで、かつて倉田がそうしてやれば眠れたと聞いて、ハグしたのだと。涼矢は、分かり易く親切な人間とは言い難いけれど、決して冷酷ではない。そんな話を聞かされたら哀れにも思うだろう。放っておけなかっただろう。でも、何かが足りない気がしていた。言い合いをして、和解して、同情して、ハグ? 同情とハグの間に、何かが抜けている気が、ずっとしていた。 「哲は謝って、それで、身の上話をした?」和樹は涼矢を警戒させないように注意しながら、尋ねた。それは塾で、特にまだ幼さの残る小学生から何か聞き出したい時のやり方だ。下手に根掘り葉掘り聞こうとすれば、心も口も閉ざしてしまい、一度そうなるとなかなか再開することがない。 「うん。」 「そういう生い立ちを、かわいそうだと思った?」 「ああ。」 「哲は倉田さんと別れて、不眠がぶりかえしたって言ったんだな?」 「ああ。」  ここまでは、短い答えながらも順調だ。いよいよ間合いを詰めるように聞く。「眠れないなんてかわいそうだと思った?」 「……ああ。」案の定、涼矢の反応が鈍くなる。だが、ここでやめるわけにはいかない。本当に聞きたいのは、ここから先の話だ。 「だから、倉田さんの真似をして、ハグしてやった?」 「うん。……後悔してるよ。そんなこと、すべきじゃなかった。」  その答えを聞くと、和樹にはもう、「本心を引き出すテクニック」を駆使する余裕などなくなっていた。逆だった。自分の、この説明できない感情をぶつけてしまいそうになるのをこらえるだけで精いっぱいだった。とりあえず自分を抱く涼矢の腕が枷のように重く感じられたから、そっと外した。和樹が腕をすり抜けていくことに戸惑う涼矢をよそに、むくりと上半身を起こし、更には、ベッドから降りた。 「何、どうした。」涼矢は焦った声を出す。話題が話題だったから、また和樹を悲しませたのだろうか。当の和樹は、無言で床に横たわる。「なんで。あ、やっぱ、狭い? 布団持ってくる?」涼矢も半身を起こした。 「いい。要らない。現場検証してるだけ。」 「げ、現場……?」 「あいつ、こうして、おまえに、貧乏暮らしだったーとか、いじめに遭ってたーとか、話したんだよな?」 「あ、ああ、うん。」 「布団とベッドじゃ、手は届かない、な?」和樹は当然届かないのを承知で、そこから手を伸ばした。ベッドの涼矢に向かって。 「……。」涼矢は目を見開いて、和樹を見た。あの夜は豆球ひとつしか点いていなかったから、哲の顔はこんなにはっきりとは見えなかった。 「おまえがそこから降りて哲の布団に行ったの? それとも、哲がおまえのベッドに?」 「……哲が、こっちに。」  和樹は起き上がり、ベッドの脇に立つ。涼矢を見降ろした。「それで? 眠れないから、ハグしてくれって言った?」  涼矢は黙りこむ。 「俺はね、こう思うんだよ。あいつなら、こうするって。」和樹は涼矢の両肩に手をやり、その勢いに任せて涼矢を押し倒した。涼矢を上から押さえつけて、和樹は言う。「そんで、あいつに、セックスしようとでも言われた?」  涼矢は和樹を押し返し、その手首をつかんで、自分の上から力づくでどかした。手首を強く掴んだまま、かすれた声で涼矢は言った。「キスもしてない。そういうことは何もしてない。でも、だからいいってことじゃないのは分かってる。」 「そんなことは聞いてない。ヤッてないのは分かってるよ。本当のことが知りたいだけ。」 「本当のことしか言ってないよ。」 「けど、話してないことはあるだろ? あいつ、今みたいに、涼矢に。」 「だったら何だって言うんだよ。」和樹の言葉を遮るように、涼矢が言った。大声を出したわけではない。けれどそれは叫びのように和樹には聞こえた。「それ言って、どうなるんだよ。何かいいことあるかよ。」

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