442 / 1020

第442話 a pair of earrings (9)

「すまん。ボーッとして、トイレに行ったら、いつもの癖で、つい。」宏樹は和樹を見ずに言った。 「鍵、かけたつもりなんだけど。」 「ああ、あれな、最近ドアの蝶番が緩んでて、鍵、かけてなくても勝手にかかっちゃう時があってさ。でも、今みたいに、ちょっと角度つけて力入れると外れるし……だから、うん、その……すまん。」 「いや、別に怒ってるとか……つか、こっちが悪い。朝から、変なもん。」 「そん、そんな、変とか。そんな風には。」宏樹はまだ和樹と目を合わせようとしない。もっとも、和樹のほうも同じだった。「何も見てないから。そういうことにするからさ。おまえも、気にすんな。」  今度は和樹の部屋のドアが開いた。涼矢だ。「あの。」 「中、入って、ドア閉めろ。」と和樹が言った。涼矢は慌てて言われたようにする。 「すいません。なんか寝ぼけてたみたいで。俺、なんかやらかしてますよね。」 「してないよ。」宏樹は笑った。だが、涼矢のことも見ない。「俺も寝ぼけてた。だから、何も見てない。覚えてない。な。気にするな、2人とも。ま、みんな起きたんなら、部屋、戻すか。」宏樹はとにかくその場に離れたいといった風情で、和樹の部屋を出ようとした。  和樹が焦った口調でそれを止めた。「待って。布団とか、片付けるから。」 「ああ、そんなのは。」言いかけて、黙る。そして「じゃあ、済んだら呼びに来い。」と続けた。 「うん。」和樹はそそくさと部屋を出た。涼矢もそれに続いた。  宏樹の部屋では、2人して黙々と作業した。和樹は無言で布団を畳み、涼矢はシーツをいったん広げ、わざと雑に畳み直した。そして「ごめん。」と呟いた。 「いや、大丈夫。あれぐらい。」和樹は丸められたティッシュを拾い集める。これが宏樹をここに戻らせたくない最大の理由だった。 「あれぐらいって、どれぐらい?」 「どこから記憶あんの。」 「何も。なんかスース―して起きて、そしたら和樹いなくて、ドアが半開きで。和樹の部屋に行ったら、話し声が聞こえて。会話の内容までは聞こえなかったけど、何かやっちゃったんだろうなって。」 「ああ。えぇと。まぁ、大したことないんだ、ホントに。2人で同じ布団に寝てたのを見られただけ。そのドアの鍵、壊れかけてるんだってさ。それで兄貴、うっかり開けて。そんだけ。」 「壊れてたの?」 「らしい。」 「やばいだろ、それ。」 「やばかったねえ。兄貴のうっかりが昨夜じゃなくて良かった。」 「そんな笑いごとじゃ……。」 「笑いごとにするしかねえだろよ。」和樹は布団を抱えてしまいに行く。しばらくして戻ってくると、ティッシュの塊を持つ手にさりげなくタオルケットを被せて、自分の部屋に向かった。涼矢も少し遅れてそれについていった。 「布団片付けたよ。」 「おう。」  涼矢は赤い顔をして、ただ部屋の隅に立ち尽くすばかりだ。その横を通り過ぎる時に、宏樹は涼矢の肩をひとつ軽く叩いた。「まあ、お互い様だ。俺もみっともないとこ、涼矢に見られてるしな。」そう言って部屋を出て行く。  お互い様? 涼矢には、宏樹のみっともない姿など見た覚えはなかった。 「何、今の。」今度は和樹が寄ってくる。「兄貴のみっともないとこって何?」 「え。いや、特に思い当たるようなことは……。」和樹の知らないところで宏樹と会うことだって、そう何回もあったわけではない。真っ先に思い出すとしたらアリスの店の時のことだ。「酔っぱらってたとか、そういうことかな。ほら、お店のトイレから電話したことあるだろ。俺が東京から戻ってきた、その日。」 「ああ。みっともないほど酔っぱらってたのか?」 「うーん。そうでもないんだけど。」言いながら、涼矢は思い出していた。そうだ、あの時宏樹は、つきあっていた彼女と別れ、ヤケ酒を飲もうとしていたのだ。さっき言ってたのはそのことに違いない。そしてそれは和樹には言うなよ、と口止めされている。それでも今は和樹の前で自分から言い出したのだから、もうそんな約束も時効なのかもしれないが、自分なら言いふらされたくないであろうことだ。やっぱり黙っていよう、と思う。「宏樹さん真面目だから、佐江子さんの前で酒を飲むってだけでも、そんな風に思うのかも。佐江子さんには仕事の愚痴っぽいこともちょっと言ってたし。」 「そうなんだ。」和樹はそれで納得したようだ。それなら無理にこの会話を広げることもない。和樹も同じように思ったのか、その次に口にしたのは「今日何時まで平気?」という言葉だった。 「今日は親父が帰ってくるんだよな。」あまり嬉しそうでもなく、涼矢が言う。「だから何ってわけじゃないけど、下手に俺がどっか出かけてたりすると面倒なんだよ。ほら、前みたいに、おまえも呼んでZホテルにフレンチ食べに行こうとか、大袈裟なプラン立てはじめる。俺が断りにくくなるように。それ考えると、今日ぐらいは大人しく家にいたほうが無難なのかも。30日も31日もまた夜に出歩くことになるし、それまでは刺激しないほうが。」 「正月だから本家に集まるみたいなのはないの? そういうのうるさそうじゃない、おまえんち。」

ともだちにシェアしよう!