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イチ。偽装恋愛④
ツツーと右目から涙が落ちたけれど、乱暴にごしごしと拳で拭いた。
「俺、もう家に帰れない。帰っても帰らなくてもあの二人が壊れるとしても帰らない。俺が誘ったんなら、姉さんの好きな人に二度と会わないようにもう戻らないことにする」
「待て。早まるな。俺は別にお前をけしかけてーわけじゃねえ。大体な、なんでデートクラブなんだ。俺みたいなノーマルじゃねえ、お前の姉さんの婚約者みたいなやつらが相手で、トラウマが払拭できるか、あほ!」
「じゃあうまくなる!」
怒鳴られて、本当は怖かったんだけど俺は立ち上がりもう一度、夏目さんの上に乗った。
「いっそ男と寝てみれば、そんな駆け引きの仕方を覚えられるんでしょ! 一回経験してみて、それから距離感覚える!」
「……誰と?」
ため息を吐く夏目さんの息から、先ほどまで吸っていた煙草の強い匂いがする。
けど、嫌じゃない。
この苦い煙草の息、――嫌いじゃない。
「ノンケアピールしてる夏目さんが俺で興奮したら、もう俺も一人前だと思う」
ネクタイを引っ張って、睨みつけた。
「どうぞ、じゃあその気にさせてみろ」
「お、おう!」
やっぱり馬鹿にしたように笑う。
俺じゃまったく興奮しないって言ってるみたいだった。
「はやくしろ。友達の吾妻くんが迎えに来てしまうんじゃねえか」
「わかってる!」
そうだった。
けれど、困ったことに俺はネクタイを結んだことがない。
高校まで学ランだったし。
スーツなんて大学の入学式に着たっきりだった。それすれも姉さんに結んでもらったぐらいだ。
「どうした? 怖いのか?」
ニヤニヤと、灰皿に置いていた煙草を取ろうとしたので、先に俺が取って潰してやった。
「お、教えろ!」
怖がってないぞ、と威嚇のつもりで偉そうに夏目さんに言う。
「ネクタイの解き方を教えろ!」
「は?」
「は、はやくしろよ!」
顔から火が吹くほど恥ずかしかったが、恥じは捨てる。
必死でそう言う俺に、夏目さんは吹きだしながらネクタイを持つ。
「いいか、ここに指を通すんだよ」
長い指がネクタイを解いていく。
何故かそれだけの行動なのに、今のこの状況のせいか官能的に見えてしまう。
「うっ」
「なんだ?」
「なんか、無理。夏目さん、雄っぽいオーラ出し過ぎてて無理」
手で口を押さえると、思いっきり嫌そうな顔をする。
「根性がねえな。俺を口説く度胸もねえのか」
「夏目さんはその雄っぽいフェロモンを押さえてくれよ。無理」
捕食される側の気持ちしかわからない。
俺がこの人を食えるとすれば……窮鼠猫を噛む?
圧倒的なこの人の雰囲気から抜け出すにはそれしかないのかもしれない。
俺は思い切って喉仏辺りを噛んだ。
強くかもうとしたけれど、なんだか怖くて小さく噛んだのち、固まる。
ここからどうしよう?)
噛みちぎるわけにはいかないし。
「おい、そっからどうすんだ?」
夏目さんの呆れた声が聞こえて、かああっと現実に戻された。
「か、噛んでみたんだよ!」
「まあ、噛まれたから分かるが、それがなんだ?」
「……食べてやるって意味だっ」
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