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覆水盆に返らず。還らず。帰らず。⑧
「悪かった。可愛い冗談じゃねえか」
「ヤクザみたいに怖い顔の男の冗談なんて、笑いたくなる要素無いです」
仕方なく書類は受け取るが、仕事ができる気分ではない。
「お前が悪い部分が多いから、俺は可愛い弟の暇の味方をしてやってんだ」
断りもなくドスンとベッドに腰をかけた。
もし今、この男に襲われたら10000000パーセント勝てない。
だが全くそんな色っぽい雰囲気にならないのは、この男が私を全くそんな目で見てないからだ。
それが普通。
暇さんや吾妻さんが異常なだけで、これが正常な反応なのだ。
たとえ私の首に首輪がはめられているのに仕事をさせる鬼社長だとしても、社長の方が正常なんだ。
「……暇さんの味方なのに、この書類を私に見せるのですか?」
社長に渡された書類は、暇さんの出生に関する極秘ファイルだった。
「仕方ねえだろ。この先、あいつには面倒なことが度々起こるかもしれねえ。あいつのためにも弁護士がいるんだ」
弟の為に弁護士を雇った、か。
確かに暇さんの出生はややこしく、ヤクザ絡みなのには間違いない。
「あいつさ、トラウマなんだよ。『愛』のないセックス」
「……ゲイの男優なのに?」
「女は妊娠するから怖くて抱けないってだけで、生粋のゲイじゃねえんだ。ただ今後の人生のパートナーに、生まれた時から女の選択肢がなかったってことだ。男優はまあ本人の意思を尊重してやれ」
社長は有名私立から有名大学に行き、恵まれて苦労の無い人生だったのだろう。
だからって暇さんを甘やかしていいのだろうか。
「暇さんの出生に関することは頭に入れておきました。もう大丈夫です」
「そうか。まあ今回の事は、暇のトラウマだったからお前が悪かったって理解して数日遊んでやれよ」
「……はあ」
苦労をしてこなかった社長には、こんな状況も弟の少しだけ我儘って処理らしい。
馬鹿らしくて感情を荒立てたりはしないけど、この兄弟は仕事以外では本当に関わりたくない。
多分二人ともB型だろう。
***
「……貴方が花渡、さん?」
社長が出て行って数分後。
今度は誰だと、うんざりしながらも扉の方を見る。
「……今度は誰ですか」
吾妻さんと歳も変わらなさそうな青年が立っていた。
吾妻さんとは違ってすれておらず、真面目そうな好青年といったところだろうか。
「えっと秘密です。でも僕がここに来たってこともナイショにしてください。これ」
チャリンと音を立てて彼が目の前に出したのは、鍵だった。
「それは」
「貴方の首輪の鍵です。ナイショですよ。吾妻くんを嫌いになりそうになったらこれで逃げてください」
いきなり現れた青年が鍵を私の掌に乗せると、優しく微笑んだ。
「嫌いにならなかったらどうしましょうか」
「飼われちゃうんでしょうかね。僕にもわかりません」
にこにこと笑う彼に対し、不思議と狂った様子は伺えなかった。
「吾妻は僕と違って自由みたいだから、その自由の中でもっと楽しく恋愛してくれたらいいなって思った。だから貴方に嫌われないように、行動しちゃいました」
キラキラと純粋な目で言うが、ここに辿り着く為にどんな行動を起こしたのか、私ですら想像が出来なかった。
胡散臭そうに睨みつけると、困ったように首を傾げた。
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