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第5話 何かのスイッチ、オン

 先生っていうのは、ただ学校に来て勉強を教えればいい――わけじゃなくて、けっこうやることが多かったりする。生徒への対応に関して、保護者との関わりに関して、まぁ色々あるし、役員会や勉強会、学校のイベントでの仕事、役割、一昨日の大雪みたいな自然災害への対応、などなど――の割りに安月給だとか、言われたり。  まぁとりあえず忙しい仕事だ。 「おっとっととと」  電卓を叩く音、消しゴムが紙を擦る音、わずかに聞こえる作業の小さな音たち。落とした消しゴムにもてあそばれるように、拾えず転びそうになったせいでガタガタ慌てた椅子の音。それから、林原先生が何か間違えたり、わからなかったりする度に唸ったり、声をあげたり。  そんな音が誰もいなくなった学校、一年四組の教室から聞こえてきた。 「……ぁ」  落っこちた消しゴムが、転がって、バウンドして、拾おうとして伸ばした指先がまた消しゴムに触れるだけ触れて、転がって。  その消しゴムを拾った俺を見て、純朴先生が驚いて声を上げた。 「大須賀先生」 「もうそろそろ六時ですよ?」 「あ、はい、すみませんっ! ちょっと待っててください! 会計の仕事してて。僕がその、お願いというか、あれなのにお待たせしてしまって」  脅して乳首触ってもらうのに、っていうのもおかしい感じだよね。脅している本人も言いながら、なんだか不思議そうな顔をしてる。  役員の仕事だから教室でやってるのか。教職員はそれ自宅に持ち帰っちゃいけないんだっけ。学校業務のいっかんだし、保護者との信頼問題等々、諸々で自宅での作業が禁止されてる。でも、たぶん職員室だとそれはそれで落ち着かないんだろう。 「手伝うよ」 「え? いえっ、いえいえ! そんなそんな」 「この領収書貼っていけばいい?」 「ぁ……はい」  お辞儀をして、頭を下げたらまた眼鏡がずれて、その眼鏡を直すとき、カチャリと小さな音がした。それと林原先生が椅子をしっかり座りなおす音。あと、もう俺が椅子に座った音。 「……あの、ありがとうございます」  放課後の学校は驚くくらいに静かだ。 「鍵、今、かかってないの?」 「ほえ?」 「林原先生のうち」  ぽかん、ってしないでよ。鍵失くしたでしょ? 一昨日積み上げた雪の山のどこかの中に落っことしたでしょ? 普通はそれけっこうな一大事なんだけどさ。もうなんかピンクな陥没乳首とか紐状の黒い下着だとかで、その辺のことがとても小さなことのようになっちゃってる。 「あ、えっと、鍵はかかってます。昨日のうちに大家さんが来てスペアをくださったので。あとでそれをまたスペア返さないとなんですけど」  その節は大変お世話になりましたって深く頭をさげた。ふわふわの猫っ毛は色も猫っぽいクリーミーなブラウン色。もしかしたら地毛なのかもしれない。お辞儀をしてよく見えるようになったつむじのとこも綺麗にその色になっている。って、この純朴先生が髪を染めたりとか、しそうには見えないけど。 「ふぎゃっ」  思わずそのつむじを押すと可笑しな声が出た。 「な、なんで押したんですかっ」 「いや、なんとなく」  後頭部を手で押さえながら、むぅ、って顔をして見せる。こういう純朴系がベッドではすっげぇえげつなくエロいのって、まぁ、けっこうなギャップ萌えにはなりそうだけど。ぁ、でも、この人ってノンケだっけ。 「スイッチみたいに押したら乳首も出ればいいのにね、林原先生」 「ホントですよ。ポチって」 「っぶ! あははは」  ねぇ、普通そこで、自分の乳首のとこ押してみる? ニットベストの上からポチって不服そうな顔をしながら押したりする? でも、一昨日の雪かきからもうすでにわかったこの人の斜めをいったギャップ萌えはさ、なんか面白くて、けっこう気に入ってる。 「あ、大須賀先生、このレシートはこっちに貼るんです」 「そうなの?」 「はい。あ、あとこれは後で貼るので」  あれこれ、何か規則があるらしい。 「会計の仕事ってさ、面倒じゃない?」 「いえ、会計はそう時間かからないから。他のに比べると。って、僕、ぶきっちょなだけなのかもですけど」  そういえば、他のもやっていたような気がする。職員室にいると、学年主任の仁科先生はけっこう忙しいけど、それに匹敵するくらいこの人もよく誰かに声をかけられてた気がする。 「他もやってるんだっけ?」 「あ、はい。えっと」  びっくりした。今、やってるこれが役員の会計、それから特別教室の相談窓口、あと学校が連携している各商業などの施設、教育機関との連絡窓口係りに、生物好きだから、植物園の管理と学校の中にある水槽の管理。用務員さんがいるのだけれど、自分も手伝っていると笑ってる。 「あのね、林原先生、教職以外の仕事引き受けすぎ」  どんだけ窓口やるわけ? 「新任だからって、頼まれたこと全部やることないでしょ。周りに割り振りなよ。俺もここの小学校新任なんだから、半分押し付けたってよかったのに」  いやいや……今、すごい勢いだけで言ったけどさ。  押し付けられて……よかった?  言いながら、少し柄でもないなと思った。きっと四月の時点で四組にいる眼鏡の少し華奢で頼りなさそうな若い教諭に半分仕事をもらってくれないかと頼まれたら、たぶん、すごく渋々になるだろう。  なら、なんで今、俺は。 「頼まれたことやってるわけじゃないんです」 「……」 「今、やってるこの会計仕事は頼まれたから、だけど。特別教室の窓口は、大学の時にそういうのも専攻でやってたので、きっと役に立てると思ったからで。植物園と水槽の管理は子どもの頃、僕がやりたかった委員だったんです。生物委員」  エヘヘ、って笑って首を傾げると、ふわふわ猫っ毛が揺れて、大きい眼鏡がずるりと下がった。なんともいえないどんくさい感じ。 「生物委員、人気で。当時はなかなかの倍率だったんです。だから、僕できなくって。とうとう! 夢が叶っちゃったっていうか、って。大須賀先生はどんな委員やってらっしゃいましたか? って、わぁ! ごめんなさい。レシート飛んじゃった」  話しながら手をぶんぶん振って、これからノートに貼り付けるレシートがふわりと舞ってしまった。 「俺は、保健委員とか体育委員、かな」 「うわぁ、大人気の委員ばっかじゃないですか」  なにそれ。人気とか人気じゃないとかあるわけ? って尋ねると、ありますよ、って難しい顔をしてみせた。  純朴先生の育った小学校では戸締り委員っていうのが一番不人気だったらしい。とにかく戸締り電気の消し忘れを確認する委員なんだけど、休み時間に最後まで教室内を見回らないといけなくなるから、休み時間が減ってしまうんだと教えてくれた。ちなみに、その委員になったことは三回あるらしい。ちょっと損なんですって、笑って、また猫っ毛が揺れた。 「先生っていう仕事をするの、好きなんです」  また笑ってる。  でもさ、この会計も、窓口も雑務だ。どちらかというと皆が押し付けたいことばかり。めんどくさい役員仕事に、めんどくさい相談窓口係り。 「なんか、何するのも楽しくて」  それをこの人はこんなに楽しそうな顔をしてやる。 「真面目……」 「ありがとうございます」 「お人よし」 「ありがとうございます」 「ぶきっちょ」 「あり、……それ、悪口ですよっ」  これには怒った顔をした。でも、その前の「お人よし」だってまぁまぁ悪口のほうでいいと思うんだけど。  ぶきっちょ、には怒ったこの人はとにかく面白くて、つむじだけじゃなく、あっちこっち突付いてみたくて。  ただのレシート貼りなのに、なんか、それも楽しくなってきてた。

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