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第13話 小さな背中と大きな掌
「おっとっとっと」
あの雪かきを思い出すかけ声が誰もいない廊下に響いてた。
学校にある大きな水槽、この地域に生息している川魚がいるんだけど。もうガラス面にはしっかりとコケが息づいていて、中の魚の様子はかなり見えにくくなっている。
水族館でカラフルな魚やクラゲを目にすることが多いだろう子どもたちにとっては川魚はそう楽しいものじゃないんだろ。
誰も見てなそうな水槽の中には地味な色をした魚がふわりふわりと泳いでる。もちろん。突然、水槽の手前に現れた人間に驚く様子もない。
その水槽の手前、高さ二十センチほどの小さな台に乗った白シャツにニットベストのその一人に、ここで観察されているなど気にもせず、魚たちは平和に泳いでた。
「よし……」
日が落ちると急にグンと冷える校舎内、日中は日差しがあって温かくても、もうこの時間は寒くてしょうがない。
もちろん水の中だって冷たいに違いない。
その水槽を覗き込んでいる。
「今、掃除しますよ~」
あぁ、そっか。そろそろ水槽の掃除をするって言ってたっけ。
大人一人くらいなら余裕で入れる巨大水槽を一人で掃除なんて誰もやりたくないのに。なんでそんなに楽しそうかね。しかもコケびっしりで、ちょっと手をその中に突っ込むのも勇気がいるくらい。
「わっ! 冷たっ!」
少し……避けてしまっていた。
仕事はお互いに忙しいし、そもそも接点は乏しかったから、ほんの少し近寄るのを止めてしまえば、距離は自然とあく。
あのあと、一度だけ連絡が来たけど、その時は俺が本当に仕事で打ち合わせ中だったから。
それからは個別での連絡は来ていない。
別に一人でできないことじゃないから。
一人で……さ。
「ほわっ、わ、わっ」
小柄なこの人はこの大きな水槽に手を伸ばして、足先をできるだけ背伸びをして。だから、よろけた。
よろけて倒れるかと思って、慌てて手を伸ばしてた。
「わっ、え? ぁっ」
咄嗟に、思わず、手が出たんだ。
「あっぶない」
「ぁ……大須賀、先生」
後ろに倒れそうになったところを支えられて、背後にいた俺に目を丸くした。
「何? これをバケツに移すの?」
捕まえようと大きな網とバケツを片手に持ちつつ、巨大金魚すくいの様相を呈している。
「あ、はい。えっと、バケツはたくさんあるので、そちらに移していただいて、中のコケを……」
「全部?」
「はい!」
「これを?」
「はい!」
普通は誰もやりたくない仕事。冷たいし、コケすごいし、なんかヌルヌルしそうだし。それなのに、この人は天真爛漫に「はいっ」なんて元気に笑顔で答えるんだ。
「おっとっとっと」
背の低いこの人は台に乗っての作業になる。プラス二十センチ、台の分だけ背が高くなると今度は高すぎて、そのままドジッ子の王道ボケっぽく、水槽の中に自分がドボンってしそうで、隣にいるこっちがそわそわした。
「水槽の水は全とっかえはできないんです」
「へぇ」
「もう生態系はできあがってるので、コケだけとってあげて。って、本当はコケもあっていいんですけど。それだと皆観察できないでしょ?」
楽しそうに魚の生態と水槽の管理のことを語ってる。大きな水槽ほど生態系は整い易くて、小さな地球がここにあるみたいだ、ってニコニコしながら、ドロリと剥がれたコケを掬い取ってはビニール袋に移していた。
「気をつけてくださいよ?」
「大丈夫です!」
いや、雪かきすらほぼ雪掃けられてないくらいのドジッ子だから心配なんだ。
ほら、今だって、魚を移したバケツを運ぶのに足元が危うくて。
慌てて駆け寄ってバケツを持ってやると、またふにゃりと笑って、頬をピンク色にした。
「持ちますよ」
「大丈夫です! 僕、チビですが、男ですから! このくらいっ」
鼻の穴を膨らませて、フガフガ鳴らしながら、見たところでほぼわからない力こぶをわざわざ腕まくりして見せ付けてくれる。白いシャツにベスト、ジャケットを着てないせいか高校生といってもわからないような、未発達っぽい身体。
「っていうか、何も一人でやらなくたって」
「……」
「しんどいでしょ」
「全然ですよ~」
一月だぞ? 水はついさっきまで凍ってみたい冷たくて。魚をバケツに移すだけでも、手が真っ赤になるくらい。
「で? あとは、何をすればいいんですか?」
「あ、あとは水を中に移して、魚を戻して、終わりです、二人でやったから早いですねっ」
不満とかさ、ないの?
なんで、そんな真っ直ぐなんだ。冷たいし、さっむいし。一人でこんなのやるの大変だろ。
「大須賀先生は優しいですね」
「え?」
ほら、この人の白い手も真っ赤だ。
「優しいなぁって思ったんです」
水槽管理なんて、めんどくさいだけだろ。
他の仕事もそうだ。雑務をあれこれ頑張って引き受けたりとか。誰だってやりたくないことなのに、それをこの人は嬉しそうにやる。
「俺は、優しくなんかないですよ」
「そんなこと」
「あ! ここにいらっしゃったんですね。林原先生」
廊下に響くその声に飛び上がった拍子、眼鏡がずり下がった。林原先生を呼んだのは若い女性だった。教員……? でも見かけたことのない顔だった。
「あの、ごめんなさい。荷物が届いていて、どうしたらいいのか」
「あ、はい! 今、えっと……」
「どうぞ、行ってきてください。彼女、困ってそうだから」
どうしたらいいのかわからない、ってことは新しい人なんだろう。職員室で見かけたことはないけれど。
行ってきてくださいって笑顔を向けると、ぺこりと頭を下げて、台の上からジャンプして駆けていく。それをその彼女が追いかけていった。
小さな背中。でも、一生懸命で、一人でこんなでかい水槽を頑張って掃除してた。
「……」
俺は何をしてんだか。
前までなら、素通りしてただろう。頑張ってるなぁ、で終わってただろう。
でも手伝った。放っておけなかった。
距離を取ろうと思う程度には、彼の近くに来ていた。近くに来すぎて、気がついたら――。
「……冷たい」
水の中に手を入れると冷たくて。冷たいのに、手を広げると、さっき、よろけたあの人の背中に触れたあったかさが、まだこの掌に残っている気がした。
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