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第15話 来客の多い一日
たいした怪我じゃない。掌、親指の付け根のところに破損した眼鏡の欠片が刺さっただけのこと。
「大須賀先生!」
「っ、平気。ごめん」
そっちのほうが大変じゃん。
「目、見えてる?」
びっくりするほど劇的映画のワンシーンみたいじゃん。俺は殉職寸前の人で、純朴先生は、そうだな、その殉職寸前の俺の恋人。死に際に、愛しい人の腕の中で死なないでと切なげに泣かれる、なんちゃって。
「俺は平気。そっちは? 怪我してない?」
「僕はっ、全然っ、それより、手をっ」
「俺のはたいしたことないってば、血が出ただけ」
「血!」
慌てないでよ。だって貴方見えてないでしょ? ただの切り傷だよ。親指ならちゃんとくっついてるし、動かせる。ちょっと痛いけどさ。でも大丈夫だから、そんなふうに慌てなくて平気だから。
実際にはそんなもん。劇的シーンなんかじゃなくて、雪崩となって落っこちてきたけん玉がガコガコと頭に当たって痛かっただけ。手の怪我は目の悪いこの人には血だらけの手にしか見えてないんだろうけど、別に絆創膏を数枚もらえたらそれで充分。そんなものだ。
「大丈夫ですかぁ? すごい音が、わっ! きゃぁ! 林原先生っ?」
リアルには、さ。
「わ! ど、どうしようっ、お怪我はないですか?」
「あ……えと」
「鈴木です! 代理で来てる」
「あ、あぁ、鈴木さん」
リアルは、眼鏡が壊れて困っていた彼を、偶然、ずっとその純朴な彼に惹かれていた女性が見つけて、手助けをしてあげる、ほんわかとした恋の始まりとなるワンシーン。
「なんか、すごい音がしましたけどぉ、って、うわぁぁ、何、どうしたんです? 林原先生と大須賀先生? あと、けん玉!」
現実はこんなもん。
「大丈夫ですか? あの、手、貸しますっ」
「あ、いえ、鈴木先生、僕は」
「危ないので!」
あの人の手は小さかった。でも、彼女の手はそれ以上に小さくて、柔らかくて、可愛い女の子の手。
――またしてくれるんですか?
きっとそれで気がつくだろう。始められる恋の存在を。ノンケのあの人用の恋がどこにあるのかを。
「手の怪我、大丈夫すか?」
「大野先生……すみません」
「いえいえー。やっちまいましたなぁ」
「……ですね」
ホント、やっちまいました、だ。
「ホント……」
溜め息を零して、ぽっきりと折れてしまった眼鏡をそっと拾った。
放課後でよかった。
けん玉はいくつか返品交換することになったけれど、来週、月曜日には一年生全員に配ることができそうで、よかった。
怪我をしたのが利き手の右手だったけれど、傷が出血のわりに浅くて、週末の土日を挟んでて、よかった。
「イテテ……」
でも、痛いのは、あんまり、よくないけど。
保健室で診てもらった後、ちょうど帰るところだった。コートのポケットの中でスマホが鈍い振動音を響かせる。それが運悪く右のポケットで、怪我した手で取らなくちゃいけなくて、少し痛くて。
――ねぇ、俺の私物、もう処分しちゃった?
ビンタされて別れた、前に付き合ってた男からのメールに、また重たい溜め息が零れた。
歯ブラシとかは捨てた。あとは残してある。俺は使わない整髪料とか肌ケア用の消耗品と衣類はさ。さすがに断りもなく私物を丸ごとは捨ててたらダメだろ。
玄関のチャイムが鳴ったから、窓の覗き穴から確認して、そして溜め息混じりに扉を開けた。
「あのね……」
「来ちゃった」
そこにいたのはコンビニで待ち合わせたはずの元彼だった。アパレルの仕事をしているから、サラリーマンにはできないヘアースタイル、細身で、腰のラインが好みだったし、それを本人も熟知しているちょうどいい遊び慣れをした大人。エロくてさ、スケベで、楽しかった。セックスも、ペッティングも、セックスまがいの遊びも。
「なぁ、祐介(ゆうすけ)コンビニで待ち合わせたはずだけど?」
「んー、だって、待ち合わせたコンビニ駅から遠いから面倒だったんだよ。それに、わざわざ近くのコンビニじゃないってことは、もう次の彼でもできたのかなぁって思って。アポなしで急に連絡をしたら鉢合わせできて、焦った保が見れるかもって思ったんだけど」
「……」
「予想外。いなかった」
「……」
祐介はニコリと笑った。
あえて黒髪に染めてる祐介の髪は指に絡みつくような柔らかさがある。そのしなだれるようなしっとりとした黒髪を耳にかけると、仕事の時はつけられないと、会う時には必ずつけている、うなじにいつもつけてる重く甘い香水の香りがした。
「ねぇ、手、洗ってもいい?」
「は、なんで?」
「いいでしょ」
俺の横をすり抜け、そのまま迷うことなんてなくバスルームへと向かう。
「ねぇねぇ、化粧水のミニボトル捨てちゃった?」
「……捨ててない。紙袋に入れてある」
「よかったぁ。あれ、ミニボトルだけど海外のめちゃくちゃ高かったからさぁ」
「……」
「ねぇ、まだ次の彼、ここに来てないんだ? 今回、ずいぶんのんびりだね。俺の時はさぁ、その前の彼と別れて即だったでしょ?」
バスルームから顔を出した拍子に、そのしっとりとした黒髪が揺れた。
「悪い先生」
「……」
「だって、まだ前の人の歯ブラシも残ってたもんね」
「……関係ない」
「ね、その紙袋の中、あの下着入ってる?」
「……」
「好みだったでしょ? あぁいう、やらしいの。今の彼にはお願いしないの?」
「…………」
「しないの?」
やらしい下着、それを見たあの人が顔を真っ赤にしてたのを思い出した。ノンケだったから、そりゃ不慣れだろう。びっくりした顔が面白かった。
「ふぅん……」
あの人は、そういうの似合わないだろうな。そもそも身につけないけれど。
「……ねぇ……慰めて、あげよっか? その手じゃ、オナニーもできないでしょ?」
チラリと視線がいったのはガーゼが貼られた俺の右手。
「右手、痛そ……」
指先で、ツーっと腕まくりをした腕を官能的に撫でる白い指。手入れの行き届いた爪はとても綺麗にマニキュアでコーティングされていた。あの人の指先は丸く小さい爪。キレイに切りそろえて、小さな子どもがはしゃいでじゃれついても引っ掻いてしまわないようにって、してある、白い指をしてた。
「欲求不満……って、顔してる」
「……」
「してないんじゃない?」
薄い唇。あの人はそんなふうに笑わない。。
「セックス」
長い睫毛。あの人は普段は眼鏡であまり目立たなくなるけれど、目を伏せると触れてみたくなるほど長かった。
「したいでしょ?」
甘い声。でも、あの人のは――。
「やっらしいやつ……上に乗って必死になって腰振ったげる」
思わず、首筋を撫でる祐介の手首を掴んでた。細い手首。あの人の手首は――。
「……送る」
俺は、可愛いって思ったんだ。
あの人のドジなとこも、雪かきがありえないくらい下手なところも、損なくらいに真面目に仕事をするところも、それを嫌がらずに、嬉しそうにやるところも。
可愛かった。
子どもみたいに無邪気で。
可愛いと、思った。
――大須賀先生!
すぐに赤くなるあの人を。
「駅まででいいか?」
愛しい、って思った。
「え、何? もしかして」
「……」
「節操なかったのに、悪い先生が、ねぇ、もしかして」
あの人を。
何が、脅されてる、だ。いつからなわけ? なんで、自覚なしなの? ねぇ、童貞のあの人ならともかく、俺は恋愛経験豊富だろうが。
「……馬鹿だろ」
そう自分に呟いて、まだ下に下げるとズキンと痛む手で雑に髪をかき上がると、思いきり馬鹿な自分に溜め息を零した。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン!
連続して慌しく鳴り響くチャイムの音。
びっくりして、祐介の悪戯かと、また玄関扉の覗き穴から見てみたら、今度は誰もいない。悪質な悪戯。
「……は?」
子どもみたいな悪ふざけ。今時、ピンポンダッシュなんてありえないだろ。しかも連打。
「……」
でも、ほら、連打して、家人が出てこないうちに隠れなければと、急いで物陰に逃げ込むから。
「…………何、してるんです?」
頭隠して尻隠さず、って知ってます?
「見えてますよ。コート」
紺色のコートの裾がはみ出て見えている。
「…………あ」
ついさっき口をへの字に曲げていた。へそも曲げてた、かな。なんでか意固地になって俺の手伝いを拒む子どもな人が、子どもみたいにピンポンダッシュをした。
その人は、ドジで、天然で、でも仕事をなんでもかんでも頑張る可愛い人で、ついさっき、愛しく思っていると俺自身が自覚したばかりの、同僚で、年下で、男。
「林原先生」
こっそりつけたあだ名は純朴先生だった。
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