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第17話 大事なことなので二度言います。
涙を零していたこの人がふわりと柔らかく微笑んで、甘い声で俺のことを呼ん――。
「大須賀セン…………ああああ! わかった! あの人が! あの人が、あの! パンツの、ヒ、ふごふごんぐ」
「……林原先生、ここ、非常階段」
俺のことを呼んだと思ったら、急に叫ばないでよ。びっくりするでしょ。
「ふぐ」
「響くので」
「ふぐぐ」
思わず、口を手で塞いじゃったじゃん。
コクコク頷くこの人の口からそっと手を放すと、溢れるように真っ白な吐息がその口元に広がった。
「パンツの人、ですよね?」
「あぁ、まぁ」
「あの、パンツ、大須賀先生のじゃないって言ってたし、あの人、とても綺麗でよく似合う気がします」
そこで、そんな冷静に分析されても。
「それなら、やっぱり……お付き合いを」
すごいな。その言葉が、「お付き合い」っていう言葉が似合うような関係からはほど遠い付き合い方ばかりをしていたって、言われると、とても思う。
「前、ですよ。それで置いていった私物を取りに来たんです」
「前……」
「えぇ、私物を取りに来て、帰りに送ったところでコンビニに用があるって寄ったんです。林原先生が見つけたのはきっとその時」
「その時……」
まるで言葉を覚えたての子どものように、俺の言ったことを繰り返してる。コンビニに言ったのは一時間くらい前だったと思う。もう夜も更けて、グンと冷えてきたのに、この人は一体どんだけここで泣いてたんだろう。
ほら、鼻先が真っ赤。それに目だって。
「目、真っ赤じゃん」
「これは……コンタクトがなかなか取れなくて」
「擦ったの? 目、痛くするよ?」
「っ」
目元に触れると、ピクンと肩を揺らす。突然触れられてびっくりしたのかもしれないし、イヤだったのかもしれないけれど、でもきっとそうじゃない。
これは、そういうんじゃない。
触れただけで、フイッと顔を俯かせながら泳ぐ視線には戸惑うとかななくて、ただ熱っぽいものが混ざってる。
だから、唇をきゅっと結んだこの人の潤んだ瞳に、赤い目尻に、そっと唇で触れた。触れたら、止まらなくなって、頬に、鼻に、それから。
「ンっ」
唇にもキスをした。さっきした奪うキスとは違う、触れるだけの柔らかいキス。それなのに、笑っちゃうくらいに熱が込み上げてくる。
触れたいし、触れられたいし、抱き締めたい。とにかく、この人のことを可愛がりたくて。
「それより、鈴木先生はいいんですか?」
「え?」
「さっきのけん玉の時、貴方のことを心配して付き添ってたでしょ?」
でも、泣かせたい気もして。
「あの人、きっと、貴方に気がある。ちょうど良いタイミングじゃん。林原先生、彼女が欲しいって言ってたし」
学校の先生をしているのに、愚かしいほど、気持ちがせわしなく、この人からあれもこれもって欲しがってる。ヤキモチも独占欲も、熱も、恋も。
「いい感じ、だったと思いますよ? 可愛いし、優しそうだったし」
ちょっと意地悪をした。
「い、意地悪、しないでください」
「うん」
「さ、さっきのっ、僕の、ファ、ファーストキスだったんですからっ」
「……うん」
悪い先生だよね。大事なものなのに無理やり奪ってしまうなんてさ。一回しかないのに。それはとても、とっても悪いこと。きっとピンポンダッシュよりもずっと悪いこと。
「彼女は、いりませんっ」
「……そう?」
「欲しいのは……」
「……うん」
少し小さく、肩を竦めて、おっかなびっくりな手つきでこの人が俺の腕をきゅっと掴んだ。ただそれだけでもにやけてしまう。
それだけでも嬉しいのに。
そのきゅっと掴まる手が俺を自分のほうへと引き寄せて、この人が目を瞑る。ちょっとタイミング的には早いかな。目を閉じるのがさ。それじゃあ、ちゃんと唇同士がくっつくかわからないでしょ? 男性のリードを望む女の子が相手だったら、上手にキスができないかもよ?
「大須賀先生です」
でも、この人は俺とキスをした。
この人からする初めてキス。とても拙くて、とても不器用で、緊張でぎゅっと結んだ唇は硬かったけれど。
「大須賀先生が」
たまらなかった。
「好き、なんです……」
たどたどしいキスでイきそうになるくらい、たまらなく最高で。
「ン、ぁふっ……ン、ん」
このまま壁に張り付いたまま動けなくなりそう。もっと、したくなった。重なった唇の間から舌を差し込んで、角度を変えて、おずおずと舌先を絡めてくれるこの人の喉奥まで挿れて欲しくて、壁に手を付いて、零れる吐息ごと食べるようにキスをする。
「ンんっ……んくっ……」
貴方に夢中になって俺も忘れかけてたけど、ここ、うちのマンションの非常階段だった。誰がいつ通るかもわかんない。
でも止められない。
このまま押し倒してしまいたいくらい。
唇で触れて。
「ン、ふっ……ン、ん」
舌を絡めて。
「っ、ン、ぁ、ン」
腕の中にずっと。
「大須賀せんせっ、い」
ずっと抱いていたい。
「ンっ」
そのキスの合間に零れる吐息すら。
「ごめん」
「?」
謝罪の言葉に、真っ直ぐ俺を見つめてくれる。なんで謝るんだろうと、切なげな不安がその瞳にほんの少しばかり混ざっているのがわかった。
貴方にとってはファーストキスなんだ。そんな一気に急展開ってさ、困るでしょ。
「申し訳ないんですが、帰ったほうがいいと思う」
「え、なんで」
「手、怪我してるから」
「! あ、そうだ! 怪我っ! あのっ僕、コンビニで見ちゃってから、怪我のことっ」
「そうじゃなくて、だからね?」
怪我をしていないほうの手を壁についた。でも、怪我をしている右手側は逃げ道を塞がず。退路は残したままにした。
「俺、右利きだから、右怪我しちゃって」
「はい」
「オナニー、できないんで」
「オナッ!」
「これ、収まりつけられないんです。勢いあまって襲っちゃうかも」
「っ」
すごいでしょ? けっこうガチガチなんだ。初心な純朴先生に悪戯をするような、意地悪を言うような悪い先生だからさ。
「だから、帰ったほうがいいですよ」
本当に襲っちゃうから。
「…………帰りません」
「……」
退路は断たなかった。けれど、その退路を無視して、この人は俺に抱きつくと、小さな声で、帰らないと、たしかに呟いた。
「意味わかんなかった? 帰らないと、俺も」
「帰りませんっ」
俺も我慢できるかわからないよ? そう言うより早く、二度、きっぱりと断言して、俺の腕をぎゅっと掴んでいた。
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