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第36話 わ
帰り道、ずっと、さっき見たものが頭から消えなかった。
バレンタインだからと一緒に飲めそうなデザートワインを買ってる間も、ずっとこれを買う必要ないんじゃないのか? と、思いそうに何度もなった。
あの女性は、特別教室の代理教員。名前は鈴木先生。
慶登が眼鏡を壊した時、目の見えない状態で一人歩くのも危ないからと、付き添った女性だ。眼鏡よりもコンタクトのほうが似合うとアドバイスをしてあげていた。気があるのは明白だった。誰が見たってわかるほどに。
そして、気持ちを伝える気も満々だったわけだ。
今日はバレンタインデー。気持ちを伝えるには絶好の日でしょ。
ちょうどチョコレートが入っていそうな小さな紙袋を彼女が手渡した。ネクタイとか物をプレゼントとかよりも、高級チョコレートよりも、あの彼女なら手作りのお菓子とかにしそうだ。
ふわりと微笑んで、作ってきたんです。あまり美味しくないかもだけど、とか言いながら。
ふにゃって笑って。本命の気配丸出しのそれを手渡す。
あの人はその本命感丸出しの紙袋を、ありがとうございますって、受け取っていた。
とても嬉しそうに笑っていた。
「あれ? ごめんなさい! お待たせしてしまいました」
「……」
バレンタインデー、金曜日、俺は慶登のうちに呼ばれていたけれど。
待ち合わせたのは七時、だったけれど。
慶登は時間どおり。ただ俺がずいぶん早くに来てただけだよ。
慶登が受け取った時の笑顔を忘れたくて、気が付いたらすごく早歩きだったから。
「早かったですね。僕、保さんより先に学校出たんですけど」
知ってるよ。追い抜かしたから。
慶登はあの鈴木先生と楽しくおしゃべりをしていた。
早歩きすぎて、ずいぶん早くに着いてしまって、マンションの下で待ちぼうけをしていた。電話をしたらよかったけれど、メッセージでも送ればよかったけれど、なんか……ね。なんて言ったらいいんだろう。
胸の辺りがチリチリジリジリ焦げ付いて、イラついて。なんとも言えない苦いものが胸の辺りに積もっていく感じ。
「寒いですよねぇ。二月ってこんなに寒いですっけ」
口元緩やかに、表情も明るく、鍵が鞄の中にあると思ったらなくて、じゃあとコートの右を探してもなくて、左側のポケットに入っていた鍵でドアを開けている間、和やかに話す姿を見つめてた。二月なのに半袖半ズボンの男の子がいて元気だなぁって思うんですと、微笑む横顔を見ながら。
「今、エアコンつけますね。たくさん待ってましたか? ごめんなさい。手、かじかんじゃい、ま……保さん?」
なんかさ。
「保さん、どうかしましたか? あ! そうだ! あの、ですね! 今日お呼びしたのは」
「さきに」
「え? わっ! ちょっ、待っ」
待てと言われて、喉奥が焼け焦げそうに熱くなる。
なんていうか。
見苦しい男だな。嫉妬心剥き出しで、うちに上がらせてもらって早々に押し倒すとかさ。まだエアコンをつけただけ。外から帰って来たのにうがい手洗いもしていないのにって、いきなりベッドの上に転がされ、天井を見上げてることに目を丸くした。
「キス、してもいい?」
「ぇ? なんで、訊く……っ」
確かめるためのキス。
触れるギリギリで止めていた。彼女のことが少しでも頭をチラついた瞬間を見逃さないようにって、目を瞑らずに。
キスは? そう思った? キスしてもいいかと訊いたくせにしないから、おかしいなって、不思議に思っていそうな表情のまま、慶登から唇を重ねた。重ねたままで待っていても、舌を挿れないことにまた違和感を覚えたのか、ゆっくりそっと、柔らかい舌を差し込んでくる。
「っ、あ、の……何か、僕、試されてますか?」
普段天然なのに。
普段、ぼやぼやしてそうなのに。
「僕……」
雪かき下手なくせに。ドッジボールでもすぐに当たるくせに。どうして、こういうことには鋭いんだ。
「何を試されてるんですか?」
真っ直ぐ、俺を見つめて、キスひとつで俺の不安を鷲掴みに捕まえる。見苦しいと、小さいと、隠そうとしても膨らんでいくから隠しきれずにはみ出た不安を。
「保さん?」
ぺろりと唇を舐められて、思わず、苦笑いが零れた。巧みなキスでもなく、濃厚でいやらしい情欲が滲むキスでもない。ただ、ぺろりと舐めただけ。
けれど、その舌が柔らかくて優しくて、やばかった。
相当はまってる。これじゃ見苦しくもなると苦笑いが零れた。
「鈴木先生に呼び止められてたでしょ?」
「!」
「さっき、帰り道で」
みるみるうちに真っ赤になっていく。口をパクパク開けて、けれどちょうどいい言葉が見つからないのか、何もしゃべらず。
「チョコ?」
あの雰囲気は本命でしょ? 手作り系の、女子力ハンパない感じの。
「めちゃくちゃ嬉しそうに受け取ってた」
驚いた? 見ちゃったんだ。女々しい、見苦しい奴だと思った? 俺もそう思うよ。笑顔で受け取るこの人の、あの横顔が頭から離れないしね。
「何を受け取ってたの?」
「……」
「チョコ?」
さっきキスをした唇を真一文字に結んでしまった。教えてくれないんだ? と問えば、もっと硬く唇を結んだ。
「な、内緒、です」
「なんで?」
「なっ、内緒は内緒だからです! あの、その、ちょっと着替えてきます! 僕っ」
脱ぐんだからと、手を伸ばして組み敷こうとした。いつもならすんなり腕の中に収まる慶登が今日はスルリと逃げ出す。まるで見られたくないみたいに、触れられたくないみたいに、腕の中におとなしく収まってくれないから、また喉奥が熱くなる。
そして頭の中にはさっき見た、紙袋を手渡す鈴木先生と、それをやたらと嬉しそうに受け取る慶登が。
「着替える必要ないでしょ」
「ヤダ、着替え、ないと」
「なんで?」
「ぁ、あと、シャワーも浴びないと!」
「だから、なんで」
「い、色々とっ」
ベッドの上、まるで襲おうとしてるみたいに乗りかかる俺と、必死に逃げ出そうとする慶登。もみくちゃになりながらの攻防戦の真っ最中だった。
「ですからっ」
慶登がぎゅっと俺の服を掴んで、さっきのように唇をきゅっと真一文字に結んだ。けれど、今度はその唇を開いて。
「…………わ」
わ? 別れてください? 忘れてください? ワタシハウチュウジ――。
「…………わ……ワセリン、です」
「…………は?」
「ワセリン。さっき、鈴木先生にもらったの」
ポケットから出して見せてくれたのはプラスチックのケース。
白い円柱の小さな、掌サイズのそれにはラベルも何もなく、淡いピンク色の蓋が、慶登の乳首の色に似てた。
服を乱した慶登が真っ赤になりながら、くちゃくちゃになったワイシャツの裾を捲り上げた。ゆっくり持ち上げ、ゆっくり露になるピンクの。
「乳首に塗る用にって、ワセリン、もらったんです」
ピンクの乳首にはデジャブですか? と問いたくなる絆創膏が右の乳首にも、左の乳首にも貼り付けてあった。
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