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第40話 君にできること、俺にできること

「そうですね……でも、そのお考えもわからなくもないですが」  しぶぅぅい顔をした仁科先生が頬に手を当てて、溜め息をひとつつく。そして、なんとなく漂う重たく少しばかり息苦しい空気。 「でもっ!」 「えぇ、おっしゃりたいことはわかります」  反論しようとしたのを遮って、仁科先生が理解はしていると頷いてみせると、慶登がきゅっと唇を噛み締めた。  どちらも真面目。  仁科先生も慶登、どっちも真面目。だけどその真面目が真四角な形をしている仁科先生と、柔らかい綿毛みたいなおおらかさのある慶登。  そんな二人の意見が違っていることはちょいちょいあった。今まではそれを少しだけ退屈だと感じながら眺めてた。 「あの、私からの意見を、宜しいですか?」  今までなら傍観者に徹していたと思うけれど、今の俺は――。  日直を、慶登のクラスだけ一人ずつにやらせていた。他の三クラスは二人で行っていたから、もう二月に入って三学期も三分の一が消化済み、それでは足並みが揃わなくなるでしょう? というのが、仁科先生の意見。  けれど、一人でできると判断した。一人で日直の大仕事をやり遂げられたら、それは生徒の自信に繋がるのではないか、大変かもしれないけれど、それを教師である自分が見守って導くのが、学校というものではないでしょうか。というのが、慶登の意見。  俺は、クラスそれぞれの個性でいいと思う。クラスの人数は二十数名。三学期中に日直の仕事はぐるりと一周できる。一人必ず一回はできるのだから、二回で仕事が半分、というのと量では変わらない。不平等ではないと思う。そして、二人で協力して仕事をするのもとても大事なことだし。一人で仕事をやれたっていうのも達成感を得られるとてもいい機会だと思う。  どちらもあっていいのではないだろうか。得るもの、得られないものがそれぞれにあるだけのことだ、と話した。 「僕はっ、個人個人の可能性をって思うんです」 「そうねぇ」 「大須賀先生の一組さんは二人だけれど、それを二人でやらないからって、劣ってるとか、思ったことないですっ」 「わかってるよ」  まだテンションが会議の時のまま、口をへの字にして、表情が力んでた。 「慶登、食器拭いて?」 「あ、はい」  今日の晩飯はムール貝とシーフードを使ったトマトパスタに、ピザとサラダ。ちょっとイタリアンにしたんだけど、さ。ムール貝にびっくりしてた。ほら、殻が大きいから、なんですか? この真黒な貝のボスみたいなの、だって。一緒に炒めたアサリに比べたらたしかにでかいけど。でも食べたら意外に好きだったでしょ? って、言うと、コクコク頷いていた。 「……保さんはなんでもできて、すごいです」 「俺?」 「はい。料理だってすごいカッコいいのを、パパパって作っちゃうし。さっきも、あの、ありがとうございました」  料理はパスタだけだよ。ピザは買ったやつだし、サラダはレタスとハーブをちぎっただけ。その唯一の料理であるパスタだって、貝とかシーフード乗っければ、レトルトのトマトソースだって美味そうに見えるもんだし。 「保さんみたいに、僕もなれたら……」  俺は、そんなたいそうなものじゃない。 「眉間……」 「……」 「ガチガチ」  指で軽く突付くと、ほわりと眉間の力が緩んで、眉毛がやんわりと弧を描いた。  俺は立派なんかじゃないし、カッコよくもないし、すごくもない。学年会議の時にああやって意見を言ったのだって初めてだった。普段はクラスの現状報告で終わってた。意見は、なかった。 「それぞれの個性でいいと思っただけだよ」 「……」 「俺はあのパスタを作れたけれど、慶登みたいにあの仁科先生と意見交換しようとは思わない」 「……」 「慶登はあの仁科先生と意見交換ができるけれど、今夜のパスタは作れない」  仕事、だから。俺にとっては、良くも悪くも教師っていうのは「仕事」だった。 「それぞれ、でしょ」 「……」 「そうだ。ね、慶登はビールいける?」 「え、ビール……一杯くらい、なら」 「じゃあ、その一杯分」  まだ、時間あるし。スーパーに行って買って戻ってくる時間分も含めて、さ。ちょうどいいんじゃないかなって。買い物往復分の時間とそれとビール一杯分の時間があれば。 「一年担任、教育指導、討論会」 「……え」 「サシで」  俺と慶登で、たまにはいいんじゃない? 「あ、あの、僕の拙い意見、聞いてくれるんですか?」 「もちろん。っていうか、拙くないでしょ」 「……」 「四組の生徒、皆、慶登のことをあんなに慕ってるんだから」  本当さ。本当にそう思う。生徒が見上げるこの人はどんなふうに見えてるんだろう。カッコよくて優しくて、尊敬する先生。 「あっ、ありがとうございます!」 「いえいえ」  食器も洗い終わったし。そしたら。 「まずはビールを」 「お、おごります!」 「マジで? ラッキー」 「えへへ」  そこでふにゃりと笑った。猫っ毛の髪がその笑顔につられてくるりと揺れる。フワフワに揺れる前髪の隙間から見えるつるりとした額にキスがしたくなった。唇で、慶登に触れたいと思ってキスをした。 「……」  もっとすごいことをけっこう色々してるはずなのに、ただ額にキスをしただけで頬をピンク色にする。 「ほら、慶登はあったかくして」 「え、僕は全然」 「いや、まだインフルが充分にありえる時期だから」  あったかくして、ビールでも買いに行こう。風邪を引かないようにマフラーを首に巻きつけて。手袋もして。玄関を出たらそこから始めてみるんだ。 「行くよ」 「は、はい!」  そして、まるでだるまのように着膨れた慶登と、二人っきりの教育論討論会が始まった。 「ふわぁ……」  職員室だからといって、教師があくびなんてよろしくないと思うのですけれど? って、仁科先生には言われそう。  慶登だったら、あくび、出ちゃう時は止めるおまじないがあるんです。いいですか? ちちんぷいぷい、って、何か面白いことを言いそう。もしくは、あわわわ、ごめんなさい。眠いですよね。遅くまで付き合ってもらっちゃったから、ってあの眉毛を八の地にする。そっちのほうがありえそう。  だって、日付が変わる頃まで討論会してたし。 「寝不足ですか?」 「あ、大野先生」  隣の隣、三組の大野先生が小さくお辞儀をしてデスクに座った。仁科先生はまだ来ていないのか、すでに来ていて学校内を巡回しているのか。  そう、ね。  寝不足、かな。  討論会白熱したからさ。 「なんか、俺ぇ、昨日ぉ」 「?」 「仁科先生と慶登の討論って、まぁまぁあるじゃないっすか」 「あー、まぁ」  そう日直のことだけじゃない。夏休みの課題に関しての時も、運動会の時もその場その場で意見をぶつけ合うことがよくある。 「けど、大須賀先生が参戦したのは、珍しくて。なんか、昨日、ちょっとびっくりしたっていうか」 「……」 「あー、いや、なんというか、だって、大須賀先生って、バランス取るのが上手な人だなぁって思ってたから」  バランス、ね。バランスというより適当なんだ。眉間に皺を寄せるほど意見を交換しあうのは疲れるからさ。  眉を上げて、なんとなくで答えたところで、またひとつあくびが出た。そして、今度はそれをちょうど職員室に入ってきた慶登に見つかってしまった。そして、あぁぁ! なんてことだ! とでも言いたそうに嘆きの顔をして、スススッと隣に来ると、そっと耳元で、囁くんだ。 (あ、あの、あくびが出る時はですね…………)  思わずすごいびっくりした顔しちゃったでしょ。 (本当ですよっ)  まさかの『ちちんぷいぷい』だった。 「な、なんで笑ってるんです?」 「いや、別に」  俺のあくびを止めたのは一緒に夜更かしをした慶登が実践してくれたあくびを止める方法が可愛かったから。上唇を舐める、なんて、セクシーな気がする仕草がただの食いしん坊みたいに見える慶登のおかげで眠気はどこかに飛んでいた。

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