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第42話 雨の中の珍客

 二月の終わり、もうそろそろインフルの勢いが衰え始めた頃、みぞれ混じりの雪になるかもしれないと天気予報で言われていたけれど、予想はまたもや大外れ。 「大須賀先生、色紙書きました?」  猫っ毛の慶登の髪をふわっふわの、くるっくるにするほど学校中が湿気るくらいの大雨になっていた。 「……色紙?」 「はい。鈴木先生の」  特別教室の教諭代理で着ていた鈴木先生がついに今週末で元の職場へ戻ることになった。二週間っていうことだった代理は結局長引いて、一ヶ月近くの代理勤務になり、親睦は深まり、ちょっとこの卒業シーズンでもある三月手前、どことなくセンチメンタルな雰囲気も相まって、色紙のプレゼントということになった。言いだしっぺは――。 「えっと……あ、やっぱり書いてない! ぜひ!」  慶登だった。 「……仲良しですね。鈴木先生」 「はい! 特別教室の」 「窓口ですもんね」  色紙、あえて避けてたんだけど。今日一日、職員室の中をあっちこっちと行き交っていた色紙が俺の手元に来ないように、できるだけ俺があっちこっちと学校内を動き回ってたのに。 「はい! 窓口ですから!」 「……」  いや、そんな素直に満面の笑みで元気に答えられても。 「そういうことじゃなくて」 「? ぁ! あと、弟みたいなのかもです。あはは。仲良しに見えるの」  仲良しって自覚あるわけ? っていうか、眼鏡買うのに付き合ったり、眼鏡じゃなくてコンタクトのほうが絶対にいいですよって言ってみたり、なんというかさ。ほら、けん玉の雪崩の時だって、俺のことはスルーで慶登に一目散に駆け寄ったでしょ。 「僕、実際、兄がいるんです。仲良しなんですよー。あ、兄も学校の先生してるんです。って、言ったことないですっけ?」 「いや、聞いたことないけど、でもそういうことじゃなくて。鈴木先生のさ」 「高校の先生してるんですよ。兄。水泳やってて、背が高くて、僕と全然違ってるんです。あ、あと猫っ毛は猫っ毛なんですけど、なんか違うんですよねぇ、僕みたいにふわふわにならないし。プールやってるからかなぁ」  そういうことじゃなくて。っていうか慶登のお兄さんの猫っ毛についてとかはどうでもよくてさ。そこの手前、鈴木先生の話っていうか、その手に持ってブンブン振り回してる色紙は俺書かなくていいわけ? 書かなくていいなら、それはそれでいいけど。俺にしてみたら絶対にライバル的存在であろう彼女に送る言葉なんてものは。 「あぁぁ!」 「林原先生?」  いきなりの大きな声でびっくりした。兄のことを語っていたと思ったら、急に大きな声で叫ぶから。今はそんなに職員室にいないけど、それでもパラパラといるほかの先生たちが驚いて顔を上げた。 「さっきの、もしかして、ヤキモチ!」 「…………え、今? 気が付いた?」  時間差がすぎるでしょ。  じわじわとそれを理解したのか、ゆっくり、でもしっかりと顔が真っ赤になっていく。口をパクパク開けてまるでフワフワの尾びれが揺れる可愛い金魚。 「ヤキモチ……えへへへ」  あのね。 「嬉しいです」  俯きがちにはにかんで何を言い出すのかと思った。咄嗟に抱き締めてしまうかと思った。 「全く……」 「大須賀先生?」 「色紙、書きますよ」  手を差し出してそれを受け取った。本当に恋のライバルだったら送る言葉なんてないけど、とりあえずそれはなさそうだから、ちゃんと色紙を書こうかなと。 「た、大変だー! せんせー! 大変だー!」  書こうと思って、最初の言葉に迷った時だった。  職員室に飛び込んできた大きな声と、慶登のクラスの元気な男の子だった。廊下を走っては慶登に注意されて、それでも元気に昇降口を飛び出す男の子が、今日は職員室に飛び込んできた。 「ど、どうしたの? 平(たいら)クン?」 「犬が! 犬が入ってきちゃった! 先生!」 「えぇ?」  肩で呼吸をしながら、学校に出現した珍客のことに、目を輝かせていた。  学校の中に迷い犬。校庭は阿鼻叫喚の大騒ぎ。 「お手」 「ワン!」 「お座り」 「ワン!」  と、思ったのに。 「ちんちん」 「ワワン!」 「見て、見てー! せんせー! この子、とってもおりこうさん!」  校庭にいたのは中型犬くらいのミックス。生徒たちを追い掛け回すわけでもなく、吠えて唸って威嚇するわけでもなく、はふはふしながら、この大雨の中にもかかわらずなんとなく笑顔にも見える表情で、小学生女子に囲まれていた。 「かわいー」 「おとなしー」 「いいこー」 「雨で濡れちゃってかわいそー」  子ども達に囲まれても臆する様子もなく、でも少し緊張はしているのか尻尾は振らず、じっと、その場にしゃがみ込んでいる。 「迷子、なんでしょうか」 「……たぶん」  人慣れしてる。 「首輪の跡っぽい感じにも見えるし」  雨で毛が濡れてしまってわかりにくいけれど、たしかに首の周りで一本道のように毛が分かれているように見受けられた。  雨足は弱まる気配はない。子どもたちは長靴だけれど、犬見たさに飛び出して来たんだろう。合羽なしの傘だけじゃすぐにびしょ濡れになってしまいそうな雨だった。 「ほら、皆、雨すごいから」  そう言って中に入るよう促すと、このワンコさんはどうするのとブーイングが始まる。 「大丈夫、このままここに、なんて先生たちはしないから、皆、下駄箱のほうへ」  はーい、と渋々の返事をして、渋々学校へと皆が戻ろうとした時だった。 「ワンちゃんも、来る?」 「ワン!」  慶登の問いかけに返事をするみたいに、一つだけ吠えて、そして、テクテクと慶登の足元に来たと思ったら。 「ひゃあっ、あ、あ……あ」  ずっとおとなしくしていたのに、慶登の足元で、急に、毛の雨雫を振り払うように身体を揺らした。一瞬で飛び散って、横から大雨のように降り注ぐ雨雫に慶登の差していた傘は成すすべなく。 「……ぁ」  その迷い犬が嬉しそうに尻尾を振っていた。

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