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第43話 学校の先生

「大丈夫? 寒くない?」 「はい……大丈夫、れす、ハックション」  大丈夫じゃないんじゃん。  くしゃみをして寒そうに肩を縮めた。 「俺のでサイズ合わないけど」  コクンと頷いて、その大きいサイズのジャージに頬を染めた。知ってるって、小さな声で答えるから、こっちも気恥ずかしくなってしまう。うちに泊まりに来た時は俺の服を貸してるから。サイズの違いは慶登ももうわかってる。 「慶登のジャージは?」  体育とかで使うじゃん。ジャージ。普段はシャツにスラックスが多い。スーツはやりすぎだけれど、それなりに身なりをきちんとしておく。体育とかの時だけジャージに着替えるから、皆、運動しやすい洋服を一式持っているはずなんだけれど。 「昨日、お茶をこぼしたので持って帰りました」 「そうなの?」 「はい。そうなんです」  この人は、何、俺の知らないところでそんな可愛いドジしてるわけ?  足元で水を払った迷い犬のおかげで、慶登はびしょ濡れ。雪は降らなかったけど、それでも三月上旬、一瞬で身体が芯まで冷えてしまう。 「よくびしょ濡れになる人だ」  ちょっとだけ懐かしくて、少し笑ってしまった。一緒に雪かきをした、初めてまともにしゃべった日のことを思い出す。 「だって……」 「あの迷い犬、慶登に尻尾振ってたね」 「あの犬は今、どこに?」 「職員用下駄箱のところにいる」  扉を閉めて、小さな小窓から用務員さんにも見てもらってるし、職員にはもうそのことを伝えてあって、簡易で作った衝立で囲ってあるから犬もそこから動くことはできない。  そしてびしょ濡れになった慶登は身体を冷やすとよくないからと保健室のストーブで洋服と一緒に乾かしている最中。 「迷子、でしょうか」 「……どうかな」  大昔から使ってるストーブ。上にはやかんがのっていて、シュンシュンとそのやかんから、なんだか穏やかな湯気が立ち上っていた。 「首輪の跡があった。人慣れしてる。躾もされてた」 「……」  慶登の表情が一瞬で曇ってしまう。魚にも笑顔で話しかけるような人だ。楽しそうに雪かきをして、水槽の手入れをして、植物園の掃除を率先してやるような、生物係希望の人。 「とりあえず、貴方は風邪を引かないようにすること」 「……はい」  健やかで、優しい先生だから。 「俺、あったかいお茶持ってきますよ」  きっとほっとけないだろ。捨て犬のことなんて。  とは言っても、ね。 「うーん、犬は、ねぇ」  教頭も校長も渋い顔をしていた。腕を組み、困った顔で唸ってる。  慶登はぶかぶかのジャージの上着の裾をぎゅっと握り締めていた。 「気持ちはわからないでもないですよ? まぁ、私も先ほど様子を見に行ってみましたがおとなしくしてましたし。吠えるわけでもなく、じっと座っていたし。でも、犬は、ねぇ」 「えぇ、犬は……ねぇ」  誰もがそこで言葉を濁して会話が止まる。  普通なら警察に連絡、かな。すぐ近くにある交番に連れて行って、後のことはそっちに任せるのが無難。 「……でも」  でも、そうしたら、きっとあの迷い犬は引き取られて施設で期間を設けられる。首輪が誤って抜けちゃったのかもしれない。飼い主は今頃雨の中探してるかもしれない。これだけ躾がちゃんとしている子だから、大事にされていて、今日たまたま家を飛び出してしまったのかもしれない。  でも、そうじゃないのかもしれない。首輪を外されてしまったのかもしれない。 「しばらく学校で飼い主を探してみてはどうでしょう」  提案したのは、俺だった。 「もちろん警察へも届けて、迷い犬のことをチラシ作ってもいいです。子ども達にも手伝ってもらえば、それも一つの教育にはなるのでは、と思います」 「……ですが」 「幸いおとなしい犬ですし。もちろん簡単に考えるのは危険です。でも職員全員で気をつけながらだったら。協力をお願いしてはしまうのですが」 「うーん」  自分からこんなことに首を突っ込むことに、少し驚いていた。でも、言葉が自然と出てきたんだ。 「とはいってもねぇ、飼い主が現れるまでの間と考えても、どこでこの犬を飼うんですか? 学校でこうして飼育するっていうのは」 「あ、あの! でも! アニマルセラピーっていうのがあるんです! 僕、大学でそのことも勉強してて。よく小児科の病棟や介護施設などでセラピーに犬や猫が活躍することがあるんです」  別に特別な訓練を受けている犬ばかりではない。温和な子であれば、あとは飼い主、アニマルセラピーに熟知している人が注視していれば、学校でもそれと同じカリキュラムができるかもしれない。特別教室や、保健室、不登校の生徒の何かを刺激できるかもしれないと、慶登が訴えた。 「……でも、そうだとしても、ねぇ」 「えぇ」 「あのー、うち、犬、しばらくなら飼えますよ?」 「えぇ?」 「うち、たしか犬オッケーのとこなんで」  大野先生があっけらかんとして、笑ってた。 「犬を学校で飼育してる他校を知ってます。この前、教育委員会で知り合った教員の方の在籍校がそうでしたから。詳しいお話を伺えるかもしれません」  仁科先生が生真面目な口調で、キリリとした鋭い眼差しをそのワンコに向けると、犬が慌てて背筋を伸ばし、その場にお座りをした。 「ワン!」  そして、一つだけ、吠えるのではなく、元気の返事をした犬の声が廊下に響いてた。  大野先生は、同類だと思ってたから、そういうの関わらないかなって思ってた。  仁科先生は、反対すると思っていた。  その二人に慶登は何度も頭を下げていた。大野先生は頭をかきながら笑って、仁科先生は表情を崩すことなく、別に、と珍しく歯切れの悪い返事をした。 「あの、保さん」  萌え袖、けっこう好みなんだ。 「……ありがとうございます」  ちょこんと出した指先で、ちょこんと俺の服を掴んで、ちょこんと跳ねた髪。  俺は自分で驚いたんだ。学校で犬を、なんて厄介そうな事のど真ん中へ自分から飛び込んでいくようなことを自分がするなんてって。  ねぇ、そんな驚くようなことをしたのはきっと君のせいなんだ。 「一緒に校長先生たちの言ってくれたの、すごく、嬉しかったです」  放課後、生徒もいなくなり雨で冷え切った校舎は寒いはずなのに、頬が熱くて、なんだかしっかり学校の先生をしている自分が気恥ずかしくて、くすぐったかった。

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