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第44話 廊下は走らない!
「せんせー! ワンちゃんどこおー?」
朝から、これ何回訊かれたっけ。
「今は職員室のところにいるよ。会いに行くのはお昼休みと放課後四時まで」
これも何回言ったっけ。
学校に犬がいる、という噂はあっという間に広まった。迷子犬は一階職員室、校庭にそのまま出られる扉の近くに簡易的な犬の居場所を作ってあげた。そこからなら教頭、校長、それに誰かしら教職員の目が届くところだったから。用務員さんは学校内の清掃、巡回などがあるからずっとは見ていられない。
朝の散歩は驚いたことに、そういうのをめんどくさがりそうな大野先生がジョギングの相手になるからと率先して散歩してきてくれた。食器、フードなんかは俺と慶登で昨日のうちに用意をした。あの人は楽しそうだった。ずっと頬が赤かったっけ。目なんかキラキラしてた。
「はーい! それでは帰りの会を始めます」
大きな声でそう告げるとあっちこっちで「やったー」と嬉しそうな声が上がる。子ども達はこのあと職員室にいる迷い犬のところに行く気満々なんだろう。プリントを配っている間も、明日のことを話している間も、よーい、ドン! の合図を待っているかのように、小さな頭がゆらゆら揺れて待ちきれない様子だった。
「はい! それでは、ランドセルを背負ってください。帰りの挨拶をします。ただ! その前に! …………」
こちらが話しを止めて、静かにすると、子ども達もゆらゆら揺れるのを止めて、じっとこっちを見つめた。
「廊下を走ったら、犬のとこにはいけません。廊下を走らず、ちゃんと歩いて行ってください。犬は音に敏感です。大きな足音がドドドーっと来たら怖くなります。そして、君たちはもうちょっとで二年生なので、しっかり約束を守って、歩いて、外の職員室前に待機してください」
返事がいつも以上に行儀良くて笑ってしまった。
「はい。それじゃあ、気をつけて帰ってください。さようなら」
「「さよーならっ」」
一斉に元気な挨拶、けれど、今すぐにでも走り出したいのを我慢しすぎて、難しい顔になった子ども達がゆっくり、まるで金縛りの中を無理に動いているかのように歩いて、教室を後にした。
廊下に出ると、他のクラスも大体帰りの会が終わったようで、ぞろぞろと、けれど、やっぱり金縛りの中で歩いているかのように、ゆっくりのっそり、ランドセルの中の筆箱も小さく遠慮がちな音をカチャカチャ鳴らしながら、同じ方向へと歩いていく。
その子ども達ののっそり軍団の中、頭二つ分飛び出た慶登がいた。廊下をゆっくり歩く子ども達に笑顔で、走っちゃダメだからね、を繰り返しながら。
そして、俺を見つけた。
「……」
目が合って、ほとんど同時に笑ってた。
たぶん、お互いに同じことを思ったんだろう。そちらもそうでしたか? こちらも、今日は犬のことばかり何度も数え切れないほど訊かれちゃいました。
「あの、大須賀先生」
そう、ぶつかった視線で会話をしていた。
犬と遊んでいいのは四時まで。
だから、四時まで職員室の前は人がずっといた。あんなに職員室が人気だったのは初めてで、なんでか教頭と校長が嬉しそうにしてたのが面白かった。犬を見に来てるんだけどねって心の中で冷静に思っちゃったのは内緒だけれど。
「リードって、巻き式? っていうんでしょうか。伸ばすこともできるのがあるみたいです」
「あぁ、それ、小型犬用だったから、こいつにはダメなんじゃないかな」
「え! そうなんですか?」
「たぶん。俺が見つけたやつは」
「……ぁ、探してくれてたんですか?」
そのことに慶登の表情がぱぁっと明るくなる。
「まぁ、色々と。俺も慶登も、昨日は慌てて買い物したから。忘れてるものがありそうだなって。でも、慶登は子どもの頃飼ってたんだっけ? じゃあ、忘れ物はないか」
そして、その慶登の明るくなった表情に少し照れてしまう。
昼休み、食事が終わると職員室に集まった生徒たちと犬と一緒に過ごしていた慶登は楽しそうだった。慶登は嬉しそうにずっとほっぺたが赤くて、なんでか最初から慶登に懐いてたワンコも楽しそうで。子どもたちもあまり怖がってなくて。
あ、でも、一人おっかなびっくりの子がいたっけ。黒トレーナーにグレーの巻きスカートにレギンスを履いてた子。
「あの子、触れた?」
「え?」
一人、輪の端っこでもじもじしてた子。でも触りたそうにしてた。輪の一番後ろにいて犬の様子なんて見えやしないと、つまらないって離れて行く子もいるのに、その子だけはずっとそこにいた。でも、俺はその後、他の先生に呼ばれたから離席してしまって、そのまま五時間目の授業に入って見ていない。
「あ、伊東さんだ。二年生なんです。今日、二年生は身体測定があったでしょ? 僕、手伝いしてて。訊かれたんです。犬っている? って」
だから、「いるよ。職員室の前、でも会えるのはお昼休みと放課後四時までね」って、伝えた。そしたら、昼休み、給食が終わってすぐ一目散に来たんだろう。一番乗りだった。
「でも、次から次に来る子たちにどんどん追い越されちゃって」
引っ込み思案な子だったんだろう。子どもだからさ、無邪気すぎて、われ先にって他を押しのけちゃう子ってやっぱりいて。押しのけちゃう子がいるって子とは、押しのけられちゃう子もいるってことになる。
「だから、五時間目のチャイムが鳴るちょっと前に、おいで、ってしたんです。ちょっと犬苦手な子だったのかも。怖がってて。ほら、僕、気がついてあげるの不得意だから」
声のトーンが下がった、って、犬も気が付いたのか、リードを握っている慶登のほうをちらりと見上げた。
「でも! おいでおいで! 授業始まっちゃうけど、今なら誰もいないからって、その子を呼んだら、ちょん、って触ったんです。ね?」
「ワン!」
「嬉しそうだった? その子」
「はい」
まだ三月。昨日は雨のせいで寒かったけれど、一雨一雨ごとに少しずつ春が近づいてくるのかもしれない。
雨が土を潤して、水分をたっぷりと含んで。ほら、学校の脇の一本道、一月にはあんなに雪が積みあがっていた垣根の土にもきっと雨雫が染み込んで、まだ目を出そうかためらいがちなチューリップの球根がその潤った土のおかげでどんどん大きく成長していく。そして、三月の雨で育った球根からチューリップが綺麗な花を、四月に咲かせるんだ。
「なら、いいんじゃない? その子にとっては」
「……」
「嬉しそうだったなら」
そんなことを今度、理科の授業で話そうかなって、思った。
「はいっ」
この人といるとくすぐったい気持ちになる。この人を抱き締めて眠る時、顎に触れる猫っ毛がこそばゆいように、胸の辺りがくすぐったくて。
「ね、名前、仮のだけどつけてあげようか」
「あ、いいですね! 迷子ちゃんとか?」
「……いや、何その切ない名前」
「じゃあ、ワンコちゃんとか?」
「そもそもオスだよ」
「ワン!」
「ほら、ちんちんしてる」
「はわっ!」
「イヤ、赤面しないでよ。っていうかここは普通、学校で、公募でしょ」
「おおおお!」
「ワンワン!」
くすぐったくて、つい、ずっと笑ってしまうんだ。
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