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第48話 ポチっとな

 放課後の学校が好きになった。  前は早く帰りたいだけだったんだ。だって、もう生徒はいないんだから、もういいでしょって思ってた。  今は、日中賑やかにはしゃぐ声、たくさんの子どもたちの一喜一憂する気配で満ちる空間が、静かに落ち着いて、小さな、普段なら耳にしても気が付かないような小さな物音さえもよく聞こえるこの空間が、けっこう気に入っている。  慶登が何かを書く音、消しゴムでノートの紙を擦る音、ちょっとわからないことがあって手を止めて、小さく唸る声、また手を動かし事務仕事を再開すると聞こえる小さな小さな物音たち。どれも楽しそうで。  でも、今日は、違ってる。  元気がなかった。  何かあったら話して欲しいと、俺は言った。俺は、慶登のふわふわの猫っ毛が気に入っている。慶登のいつだって楽しそうなところを見てると楽しくなる。何をするのも一生懸命なところを見守って、隣にいたいって思ってる。  だから、話して欲しいんだ。  ねぇ、いつまででも、俺は隣にいるから。慶登が小さな物音にさえ掻き消えるような声でも「困ってるんだ」って助けを求めてくれたのなら、手を繋げる。 「慶登……そっち、俺が手伝おうか?」 「……ぇ」  ぎゅっと力を込めすぎで硬い慶登の指先をちょこんと指で突っついた。いつもは楽しそうに動き回る指先が硬くて、悲しそうで元気がなくて。 「俺のほうの名前集計、終わったからさ」 「……」 「貸してみ?」  触れたら、氷みたいに冷たくなっていた。 「けっこうさ、予想してた以上に名前、たくさんの生徒が考えてくれたって、仁科先生も、大野先生も言っていた」 「……」 「あ、そうだ。慶登は見た? 仁科先生、腰やっちゃったらしくてさ。トホホなんてぼやくから、笑っちゃった」  いうもピーンと背中に針金でも入れてるみたいに背筋がいい人だからかな。余計におばあちゃんっぽくて。 「迷い犬のことで……苦情が、あったんです」  声が、とても寂しそうだった。 「犬なんて学校の中で飼って、何か問題があったらどうするんですか? って」  今まで聞いたことのない慶登の声だった。 「子ども達の授業に差し障りはないんですか? 噛まれたら? 専門のドッグトレーナーがついてるんですか? 予防接種とか、医療費とか、ドッグフードのお金だってどうするんですか? たくさん言われてしまったらしいんです」 「でも、そういう問題は」 「それだけじゃない、学校行くの怖いって、二年生の子のお母さんが」  たまたま犬のそばにいただけなのに、引っ込み思案の子だから断りきれなかった。触りたいわけじゃないのに、早く授業に行かないといけないのに、触ってみてごらんって、言われたって。 「それって……」  黒トレーナーにグレーの巻きスカートにレギンスを履いてた子。おっかなびっくりだったけど、って言ってた。 「でも、批判は承知の上だっただろ?」  職員室でもそれと同じ問いかけはあった。全く同じだった。 「俺がいる」 「……」 「仁科先生に大野先生もいる。それから、そうだ、渡しそびれてた。慶登がなんか空元気でパタパタ動き回ってばっかだから、ほら、これ」  言いながら、名前の公募をまとめて持ち歩いていたクリアファイルの中から冊子を手渡した。鈴木先生から預かったアニマルセラピーについて書かれた冊子だ。 「鈴木先生もいる」 「……」 「俺、鈴木先生は慶登のこと狙ってたんだと思ってた」  百人力、だっけ? なら、どーんとしてて。俺に寄りかかって。そんで、いつもみたいにふわふわでいて。 「っていうか、慶登、俺らのことめちゃくちゃ鈴木先生にバレてるよ」 「え! なっ、どうしてっ」 「いや、どうしてって……」  どんな顔して俺のことを話してたのか、想像したらくすぐったくなる。どんなほっぺたの色で俺のことを褒めてくれてたのか、思い浮かべただけで胸のところがこそばゆい。 「ただの同僚のこと褒めすぎ、信頼しすぎ、惚気すぎ」 「えぇぇぇっ! だって僕、保さんのことが好きだなんて、一言も」 「はいはい」 「ほ、本当ですってばっ」  もっと慌てて。もっと困って。もっと、ドジでいて。 「まぁ、いいけど、ちょっかい出されるよりずっと」  もっと、笑って。 「ふぎゃっ」  ふわふわの猫っ毛は色も猫っぽいクリーミーなブラウン色。地毛、だろうね。もうこの人の頭のてっぺんなら二ヶ月ずっと見続けてるけど、根元の色は変わらず柔らかいクリーミーブラウン。そのつむじを押したら、可笑しな声が出るのももう知ってる。 「な、なんですか」 「いや、見えたから」 「見え……」 「俯いてた」  しょぼくれて、俯いてたから丸見えだった。丸見えだったら押すでしょ。つむじ。 「スイッチみたいに押したら出ればいいのにね、林原先生」  乳首も、元気も。ポチってさ。  慶登は後頭部を掌で押さえながら、ぽかんとして、ずっと俯いてたせいで、眼鏡がずるりと滑って、また赤くなってる鼻先で止まった。 「っぷ、ホントですよ」  やっと笑った。 「ポチって」  赤い鼻をずびっと鳴らして、笑った。そして、放課後の静かな教室が優しくあったかくなった。

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