49 / 62

第49話 モンスター襲来

 あれが来るとさ、空気が変わるんだ。一番凶暴で、一番手に負えなくて、一番厄介なあれが。 「先日、お電話を差し上げた伊東と申します」  それが来ると、職員室の空気が一瞬で冷たく、凍りつく。 「一年生の担任をされている林原先生という方はどちらに?」  俺はその冷たく凍てついた空気を大昔いやというほど味わったことがある。  意気揚々としてた。教育者として、未熟ながらにやっていこうと思っていた。  もちろん、俺は変わらず高校の時の失恋を引きずっていたけれど、だからこそ、痛みのわかる教師として子ども達と接していけたら――なんて思ってたんだ。  その、厄介なのが来て、俺の何かを押し潰すまでは。  ミシミシと音を立ててもかまわず鷲掴みにして、小さな冷たく硬い鉛臭い四角の中に押し込め潰してしまうまでは、ちゃんと輝かしいことを考えてはいたんだ。  いわゆる、モンスターペアレンツっていうやつ。  俺は新任のしがない若造教師だったんだ。モンスターなんて相手にしたら、一瞬で捻り潰されるってことすら知らない若造。  その若造はちょっとやってみたかった。頑張ってみたかった。  だから、職員室で、言ったんだ。  あの、ペットボトルを廊下の中央に置くっていうのはどうでしょう。  学校でよくあるじゃん。廊下は走ってはいけませんっていうやつ。廊下の角で走ってきた生徒同士が衝突して怪我でもしたら大変だから。扉の近くを走っていた時、生徒が飛び出してきたら大怪我にもなりかねないから。そして、何より理性を持って、しっかり落ち着いた行動が取れる児童になって欲しいから。  そのためにも、廊下は走ってはいけません。  じゃあ、廊下を走らないためにはどうしたらいいか。  廊下に障害物を置いてみたらどうだろう。  そう思ったんだ。  廊下中に、均一にペットボトルを等間隔に置いていく。そしたら、障害物が邪魔で注意して歩くようになるかもしれないから。  でも、結果は違っていた。  廊下に並べたペットボトルを蹴ってサッカーボールの代わりにした生徒がいた。それだけじゃなく、蹴ったペットボトルは行き交う生徒の一人に当たった。水も何も入ってないペットボトルだったけれど、当たった生徒は運悪くこめかみを切ってしまった。ほんの少しだけれど、それでも親にしてみたら大事だ。そして、その親が厄介だった。  激情して、このアイデアを出したのは誰だと騒ぎ、配慮が足りなかったと全面的に謝罪をしなければいけなくなった。その問題はしばらく尾を引いて、その間、職員室は重くだるく冷たくて息苦しかった。  そして、俺は何かを諦めた。  怖がりだから。  あの時と同じ。臆病だから、怖いのも、痛いのも、イヤだから、もうそういう目に合いたくないとおとなしく、適当に周囲に合わせる楽を選んだ。  そうやってゆっくりと潰れた何かはべらべらになって胸の片隅に紙屑みたいに丸まって、転がった。  あの日、あの人がそれを引っ張り出すまでは。  ――すごい、雪になっちゃいまし、た、ねっ。どっこいしょ。  隅っこでくちゃくちゃになって埃をかぶってゴミ同然の紙屑になったそれを見つけるまでは。  ――よっこらっしょ! ……どっこいしょ! 「娘の担任の先生にはもう何度も電話でお伝えしたんですが、まだ、撤去していただけてないので、出向いて抗議をさせていただきに来ました」  職員室が凍りつく。 「林原先生、失礼ですがお見かけしたところ、とても若い先生なんですね」 「は、い……すみません」  謝ることじゃないんだ。慶登。乗り込んできた保護者は謝罪をした慶登に目を細めじっくり観察する。鋭く尖った視線はチクチク肌を刺激する。小さな痛みは血も出なければ、一つ一つとしてみると悲鳴を上げるほど我慢ならないわけでもない。  でも確かに痛い。 (これ、やばくないですか? 大須賀先生) (大野先生、静かに) (えー、けど) 「犬を学校でなんて無理だと思わないんですか? それに言い出したご自身ではなく、他の方に飼育を任せてるなんて、あまりにも無責任じゃないですか?」 (はぁ? つか、俺がいいって引き受けたんすけど) 「犬の飼育にどのくらいお金がかかるかご存知です? 噛まれたら? 犬アレルギーの子への対応は?」 (噛まれないように管理するっつうの。っていうか、あのワンコは噛まないっつうの。噛んでんのはおかあさ) (静かに。大野先生) (仁科先生、これってただのいちゃモンじゃないっすか。ねぇ? 大須賀先生) 「実際、うちの子は無理やりさせられたって聞いていますけれど?」 「……それはっ」 「あら、否定します? うちの子は珍しいと見ただけなのに、貴方がそれを好きだと勘違いしたわけでしょう?」 (うわぁ、本当にただの文句っすよ。ってか、大須賀先生、一体何を?) 「…………あった!」 「コートに毛がついて、ホント……」 「すみま、」 「すみません。私、同じ一年生で、一組の担任をしている大須賀と申します」  謝ることなんかじゃない。ちゃんとこれは学校で会議をして、何度も何度も話し合って、やっていこうって思ったことだ。 「な、なんですか? 私は」 「今回の学校でのアニマルセラピーを兼ねた犬の飼育を、林原先生と一緒に担当させていただいています」  笑って。朗らかに。いつもの貴方でいていいんだって。 「犬、お母様は苦手なようですが、二年生の娘さんは大好きなようですよ。ほら……」  名前のアンケート、案外たくさんの生徒が考えて公募に出してくれた。だから昨日の集計はかなり時間がかかったんだ。慶登と俺は言いだしっぺだから責任持って、あの子の名前を考えてやらないといけないでしょ。それで遅くなって、デートはなし。久しぶりだし、餃子の美味い店にまた行きたかったんだけど。 「名前は、スマイル、がいいそうです」  黒トレーナーにグレーの巻きスカートにレギンスを履いてた子。おっかなびっくりだったけれど、触りたくて、引っ込み思案だったけれど、触りたいからずっと待ってた子。  触ったら、あの子にとってどんな感触だったんだろうか。ほわほわであったかくて優しい気持ちになれただろうか。  スマイル、そんな名前がいいと思ってくれた。 「触ったら、嬉しくて笑顔になったから。あと、犬もずっと笑ってるみたいに見えたから、だそうです」  だから、スマイルって名前が似合うと思ったって。 「ご安心ください。噛むことはないように躾もちゃんと確認しています。目の届かないところに犬が単独でいることのないよう、職員室の、ほら、ちょうどここからで見えるところ」  そこでそのお母さんは小さく悲鳴をあげた。犬、苦手なんだろう。けれど、それには触れず、話を続けた。 「あそこに犬は必ず繋いでます。犬に触れるのは教員が立ち会える昼休みと、放課後四時まで」  そう。だから、言いだしっぺの俺たちは率先して昼休みと放課後四時までをそっちにも費やしている。慶登とイチャイチャおしゃべりする暇もない。 「あと、犬はご存知と思いますがパートナーシップを必要とする動物です。固定の家族が必要なんですが、これから私と林原先生でその準備をしていこうと思っています」  ごめんね。この話はまだしてなかった。ここで急にの発表になっちゃったけど。でも、慶登が俺と一緒に暮らすのがイヤなら俺がペット可のとこを探すんでもいいよ。別に。そしたらワンコを餌にして、慶登を我が家に招きまくろう。そしたら、萌え袖彼シャツがたんまり堪能できるし。なんて、保護者を説得しながら邪なことを目論む悪い先生だけど。でもさ。 「なので、ご安心ください」  でも、けっこう教師の仕事、今、楽しくて好きなんだ。 「そ、そんなこと言ったって、貴方、万が一の時、そちらの頼れそうもない先生が」 「いえ、彼は素晴らしい人ですよ」 「……」  良い先生だけれど、もっと根本的なとこ、慶登の良いところなんて数え出したらきりがないんだ。 「素晴らしい人で、尊敬していますし、大好きです」  好きという感情に性差はない。大事な人を想うことに性別も動物人間も関係ない。命を、生きている誰かを、誰よりも尊ぶことのできる人だ。 「あの、同じく一年二組の担任で、学年主任をしております仁科と申します。以前、学年の保護者会でしっかりとしたご意見を頂戴しました。あの時はありがとうございました。今回もご意見いただけてありがたく思っております。また、何か気が付くことがありましたら、是非、宜しくお願い致します」 「あ! はい! 俺は一年三組の担任です! 大野です。今、あのワンコの仮住まいを提供しています。あ! もちろん、ペット可のとこです。毛、気になるようでしたら、ブラッシング念入りにします。それと待て、お座り、ちんちんパーフェクトなすごいワンコです!」  慶登は、良い先生なんだ。 「……なっ、なっ、何を、そんな芸風情のことを仕込んだって、貴方」 「あ、そだ。じゃあ、ちょっと待てお座りちんちん、披露しますよ。ぜひ、こっちへ」 「え! ちょっと、あの、けっこうです! あのっ」 「まぁまぁ、犬お嫌いなんですか? じゃあ遠くから見てみてください。めっちゃお利口さんで可愛いっすから。おーい! ワンコ! この方の娘さんが、お前の名前スマイルがいいんじゃないかって」 「ぅワン!」 「素敵な名前だよなぁ」 「ワンワン!」 「シャンプーは外にいる時間も長いので三日に一回、全職員で交代交代にやってます。散歩も。いずれは子ども達もいけたらと思っています」 「ワンワン!」 「ちょっとだけ背中、撫でてみます?」 「え?」  柔らかくてふわふわしてますよ? って、言いたそうにワンコ自身も笑ったような顔でお母さんを見上げた。尻尾をふわふわにさせながら。 「…………ぁ」  おっかなびっくり伸ばした手。それでもきっとわかるくらいにフワフワであったかくて、きっと優しいでしょ。 「……林原先生」 「っ、っ……っ……っ」 「……っぷ、泣きすぎ」  振り返ると、可愛い泣き顔、どころか唇をぎゅうぅぅット真一文字に結んで、鼻水は垂らすし、涙すごい大洪水だし、嗚咽すごいし。 「だ、っでぇぇぇ」  やっぱり、俺を驚かせる天才で純朴で、愛しい先生がそこで大泣きしてるから、思わず笑った。

ともだちにシェアしよう!