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第50話 愛と希望と勇気

 あのお母さんは、犬が嫌いなんだろう。娘さんは犬が好きで、でもお母さんは服についていた毛もイヤだった。犬が飼いたいとか言い出すんじゃないかって思ったのかもしれない。帰り際、空気を読まないあっけらかんとした大野先生と、しっかり者で四角い生真面目な仁科先生に挟まれながら、ちょっとだけ犬を突付いてた。突付いて、吠えることはないワンコでもずっと警戒して、渋い顔をしていた。  夕暮れ時、ワンコを挟んで、のんびり歩く遊歩道。もう三月だ。どこかしらから漂う春の気配のせいか気持ちが柔らかく優しくほぐれてく。  ほら、よくさ、愛しい人の可愛い泣き顔、っていうじゃん? 泣いてる子って、こう、なんというか、抱き締めたくなったりするじゃん? 「うぐっ、ひっく、ひいいいんっ」  さすが、俺の純朴先生だ。 「ふぐううううっ、っう、うっ」 「っぷ」  泣き顔を眺めてたら、笑えてくるって。 「ふぎゃ! な、なんで笑うんですか! 可笑しいこと僕一つも言ってないのにいぃぃぃ」 「いや……そうじゃなくて」  だって、鼻水出るし、ちょっと突付くと、ふぎゃーって泣くし、泣くと鼻のてっぺん真っ赤だし。 「鼻水、また出てる。ティッシュまだある?」  あびヴぁず、って、なんだか異国語っぽく、鼻ズッビズビの声で「あります」って呟くとポケットからティッシュを取り出し、漫画だったら「チーン」ってでかい文字が飛び出しそうな音をさせた。 「み、皆さんには、感謝じぎりでず」 「大野先生と仁科先生、めちゃくちゃかばってくれたの、ありがたかったね」 「はい! あと、ほがのぜんぜいもっ」 「あぁ」 「でも、泣いてたら、おかしいです、よね。泣き止みますっ」 「いいよ。泣いてて。止めようと思って止まるもんでもないでしょ」 「ダメ、ですっ」 「なんでよ。学校の先生だって泣くことくらいあるでしょ」  俺は、あったよ。泣きたい日、けっこうあったな。 「僕、カッコ悪すぎ、でず、もん」  そう? 「カッコいいよ」 「……」 「慶登は」  小さくて、雪かき下手で、居残りで仕事山ほど抱えるぶきっちょで、水槽の中にいつ自分からドボンって落っこちるかとヒヤヒヤするくらいにはドジだけど。俺は、慶登を尊敬してる。 「怖いよね……」 「だもづ、さん?」 「あぁいうの……怖いよ、俺は臆病者だから」 「! 保さんはっ、臆病なんかじゃないですっ」  学校の先生としてだけじゃなく、俺はもともと臆病なんだ。恋愛もビビってろくにできない臆病者。 「俺は、一回潰れたんだ」 「……」 「前の学校で、何をしても文句を言われて……」  胸にあったのは、希望、だった。教職に就いて、こういう教師になりたいっていう希望があったんだ。たしかに。それを少しずつ折り曲げられて、小さく畳まれて、少しずつ少しずつ、丸められてくしゃくしゃになった。 「あの時はしんどくてさ、泣きそうになったことなんてすっごいたくさんあった。でも、捨てなくてよかった」 「……保、さん」  くっしゃくしゃでゴミみたいに隅っこに転がってはいたけれど、捨てずに持ってはいたんだ。捨てられなかった。 「よかった」  あの日、めんどくさい雪かき係でよかった。 「おかげで慶登に会えた」 「……」  慶登がくっしゃくしゃになったものを見つけ出して、拾い上げて、その白い手で広げてくれた。 「めちゃくちゃ感謝してる」 「……」 「あー、あのさ、さっき言ったこと。ワンコのさ固定の家族が必要で、その、俺と慶登で準備していこうと思ってますって、言っちゃったけど、あれはさ……」 「……」 「あれは……」  くっしゃくしゃになったのは、一つじゃないんだ。学校の先生としての理想だけじゃなくて、もう一つあってさ。 「あれは……」  もう一つは、勇気。 「あれ……」  ノンケはいつか男女の恋愛を選ぶ。だから好きにならないほうがいい。結局はあの言葉を言われるんだから。それなら最初から恋愛なんて、ノンケとはしない。ノンケとは。 「慶登……」  でも、慶登は、宇宙人みたいで、たまにニワトリで、たまに純朴先生だから、ただのノンケなんかじゃなくて。 「一緒に、暮らそう」 「……」 「同……せ、いーじゃなくてもいいけど、ほら、ペット可のとこ、探すから、だから、俺が一人で住んでもいいけど、部屋を一つ作るから、そこに慶登の荷物とか置いたらいいんじゃないっていうか」 「あの、それって……」  夕方、四時過ぎ、四月手前、夕陽色と夜の色、空は二つの色を半分ずつくっつけて、不思議な色をしていた。  くしゃくしゃになったのは一つだけじゃない。もう一つは勇気。 「それって……」  恋をする、勇気。 「好きだ。慶登」 「……」 「だから、一緒に暮らそう」  誰かを好きになる勇気。 「き、聞き間違えじゃなかった……」  慶登がクタリと力が抜けたようにその場にしゃがみ込んでしまう。 「慶登?」 「さっき、その保さんが僕のこと、好きって、あのお母さんに言ってくださったの、空耳かと思ったんです」  ――彼は素晴らしい人ですよ。 「でも、空耳じゃなかった。あっ! あの! あのっ! 初めて言ってくださったんです! 僕のこと、好きって! さっき初めて言ってくれました!」  そんな堰を切ったように言わなくてもわかってるよ。臆病者の俺はこんなにド嵌りしてるくせに、慶登にその二文字を言うことすら怖がってたんだから。  ――素晴らしい人で、尊敬していますし、大好きです。  だから、そう職員室で言った時だって、少し声が震えてしまった。 「ど、しよ。保さんっ」  知らないよ。 「僕、心臓が口から出てきそうです。嬉しくて、どうしよっ」  俺にわかるわけがないよ。だって、誰かに心から好きだと告白したのは十年ぶりくらいなんだから。 「じゃあ、とりあえず」  しゃがんでるし、夕方、空をチラッと見上げるとけっこう陽が暮れてきたから、わからないさ。ほら、ワンコいるからその陰に隠れて。 「心臓が口から出ないように、蓋、しよう」  ね、学校の先生にだってわからないことくらいあってさ、だから、とりあえず、キスをして、好きな人の心臓が飛び出るのを防止しておいた。

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