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ヒトである証(八重崎・中尾・水戸)

 コポコポというコーヒーサイフォンの音だけがBGMの、木目調のレトロな喫茶店である。  店内にはカウンターを挟み、店主と客が一人ずつ。  女子高生に扮した八重崎木凪は、黒い液体が落ちていく様を微動だにせずにじっと見つめていた。 「サイフォンが好きなの?」  それまで何も聞かずにいた店主の水戸が手を止めて問いかけると、八重崎は「すき……?」と人形のような可憐な頭を少しだけ傾ける。 「どうして、こんなに手間と時間をかけてコーヒーを入れる必要があるのかと思って」 「う、うーん……喫茶店という存在を根幹から揺るがすような疑問だね、それは」  穏やかな表情が困惑を帯びる。  それは、八重崎にとって見慣れた変化だった。  八重崎木凪は200を超えるIQと映像記憶(フォトグラフィックメモリー)などの特殊能力を持っているため、大体の人よりも多くのことを知っている。  図書館の蔵書を丸ごと記憶するなどということもさして苦ではないし、15桁くらいまでならば即時に暗算もできる。  だが、IQや知識があってもわからないことはたくさんあった。 「インスタントじゃ、駄目?水戸が自分が美味しいものを飲みたいと思うのは理解できる……。でも、味の違いがわかるとも思えないような客にも提供するのはどうして?税金対策のお店でもないから、コストは可能な限り抑えるべき……」 「そうだなあ……美味しいものを飲んで、ほっとして欲しいと思うからじゃないかな。確かに、いい豆を買い付けて拘って淹れるコーヒーが利益に結びつくかというとかなり微妙なところだけど。…でも、自分が美味しいと思うものを誰かに伝えることができたり、この場所で過ごす時間が誰かの幸せに一役買っていたりしたら、それは素晴らしいことだと思わない?」  八重崎木凪には、そういうことがわからない。  往々にして人は『無駄』を好む。  必要のないことで安息や充足を得、無駄と思われる時間を過ごすことを尊ぶ。  もちろん、行動原理としてのそれらは理解している。理解していなければ仕事に支障をきたす。  ただ、自分ではしないだろう。するとしたら何か目的があるはずだ。  『無駄への衝動』は誰に聞いても実感することができない。 『お前は、人じゃない』  八重崎木凪が思考できるようになってすぐに繰り返し言われたのはこの言葉だ。  笑え、怒れ、と何度も殴られたが、それに何かを感じたことはなかった。  そもそも人であるということは何なのか。  人類にとって命題の一つだろうが、知識があっても、わからないことというのはあるものだ。  生物学的に人間であると証明できても、それだけでは人ではないというのはどういうことなのだろう。  無駄なことをすれば、人であることの証明になるとも思えないのだが。 「……人は……難しい……」  八重崎にわかるのは、『興味深い』だけだ。  わからないから、求める。  だから繁殖する目的でなくても相手を求める、無駄の最たるものである恋愛及び恋愛要素の絡む事柄は大変『興味深い』。 「そんなに難しく考えなくてもいいと思うけどなあ……」  水戸は、きっと八重崎が何が分からないのかを理解していないだろう。  それでもきちんと話を聞き、一緒に考えてくれている。  この『人柄』が旧知の半グレ組織の頭から資金援助を受けずとも店を潰さずにいられる程度の集客力に繋がっていることは間違いない。  データにあった客層からしても、コーヒーの味はそれほど重要ではない。豆のグレードを落とせばもう少しは生活が楽になるのではないかと思ったのだが、やはりそういうことではなかったようだ。 「難しいけど……全部わかったらすることがなくなるから……それでいいのかもしれないとは思う……」 「八重子ちゃんも、笑ってくれたら嬉しい人がいない?そういうのが、広がって欲しいってだけだよ」 「笑ったら、嬉しい…………………………」  人らしさが分からない八重崎にも、ふつうは家族や近しい人に対してそんな風に思うはずだという知識はある。  家族といえば、遺伝情報の組成が最も近いのは神導月華だ。  ……が、彼に対し、あまり特別な感情を抱いたことはない。  基武に大量の仕事を振ってくるのは、結果基武に構ってもらえる時間が減るのであまり好ましくはないが、せいぜいその程度だ。いれば便利なこともあるとはいえ、いなくなっても特に困らないだろう。  同居しているので生活範囲的な意味で最も近い基武は、機嫌のいい時よりも悪い時の方が興味深い。  出会った時、基武には復讐心しかなかった。  八重崎には、その視覚化しそうなほどの轟々とした負の感情の奔流が興味深く思えて、それをもっと近くで見ていたくて「一緒に来るか」と差し出された手をとったのだ。  だから「笑ったら嬉しい」……は、よくわからない。  こちらはいなくなったら困るので、月華よりも重要度が高い存在ではある。  知り合いを順に思い浮かべていると、ふと、思い浮かんでくる笑顔があった。  八重崎は、彼に出会って悲しみというものを初めて認識できた気がする。  諦観と絶望。それでも尚生きていかなければならない悲しさ。  自分は人を絶望させている側の人間だ。そして、特にそれに対し心を痛めているわけでもない。  けれど彼は、彼だけは悲しい顔をしていてはいけないと思う。  彼の悲しそうな表情がふっと和らぐ瞬間に、胸を撫で下ろすような感覚があるのはなぜなのか。八重崎もまだその部分は自己分析ができていない。  色々と協力したので、他人の子供だとしても泣いていると胸がざわつく一児の母のような心境なのかもしれない。 「一人……いた……けど……一人しか思い浮かばなかった……」 「一人でもいれば、なんとなく感覚は……」  水戸の言葉の途中でカランとドアベルが鳴った。  薄汚れた作業着の男が、カウンターに座る先客を見て一瞬硬直する。  何かを言いかけ、…無視を決め込むことにしたらしい。 「おはようムネハル……知り合いに会ったら挨拶くらいしないと……母さん情けなくて涙出る……」 「うるせえな!なんなんだお前は。朝っぱらから人のシマに押しかけやがって」  ガツンとカウンターテーブルに拳を叩きつけ、誰が母親だ!と怒鳴る中尾のそばに、ツインテールを揺らしながら近寄った。 「ここで美味しいコーヒーを飲んで……リフレッシュしてから今日一日を始めようと思って訪れた……」 「……………」 「ムネハルに会いにきたと……思った……?」  ひらりとプリーツスカートを振って見せると、中尾は苦虫を噛み潰したような表情で黙り込んでしまった。 「……………お前と会話すると頭が痛くなる……………」  会話したくないのであれば最後まで無視をしていればいいものを、水戸といい中尾といい、どうにもお人好しで不用心だというのが八重崎の二人に対する感想である。 「ちなみに、那珂山製薬の株は今買わない方がいい」  八重崎の言葉に、痛みを堪える顔が驚愕に変わった。 「おい、何で俺が個人的に投資しようとしてる銘柄まで知ってんだよ」 「動向から……次はそれかなって……。数日すると、値下がりする……かも、しれない」 「……………お前が絡んでんじゃねえだろうな」 「絡んでたら……違法……。そのかわり井深製薬が伸びる……かも、しれない」 「インサイダーじゃねえか」  バレなければイカサマじゃないとどこかの有名なギャンブラーが言っていたようないなかったような。  作為的に株を売り買いすることで株価を操る所謂『仕手』のような行為はしていないが、公開すると株価が上下するネタはたくさん持っている。  どれもこれも、ネタ元である人間がそれをうまく使えば業績向上や資金調達に役立てられるものばかり。  八重崎としては、拾ったゴミで小銭を得ているような感覚であり、違法と言われても困る。日本政府や企業が優秀な人材をもっと正当に扱ったり、違法な商取引などに手を出したりしなければいいだけの話なのだ。 「コーヒー代……よろしく……」  見たいものは見られたので、八重崎は立ち去ることにした。  半グレと呼ばれる犯罪集団でそれなりに多額の収入を得ているだろうに、土建業の現場で働き続ける中尾と、利益の薄い古めかしい喫茶店を嬉々として営む水戸。  この二人は、形にならない感情で結ばれている。  互いにこだわることは何の利益にもならず、ひょっとしたらこのまま何もなく生涯を終えるかもしれない。  モーニングといってもオフィス街などではなく、客の来ないような早朝に開いている喫茶店。  何の利益も生まない場所を『シマ』として再開発から守り続ける半グレの頭。  ……無駄しかないはずなのに、水戸の店に早朝やってくる中尾を確認すると、パズルのピースが合うような、そんな感じがして落ち着くのだ。 「おい、無銭飲食かよ!」  扉に手をかけると、呼び止められて振り返る。  水戸が「いいよ、お代なんか」とお人好し全開のフォローを入れているが、無銭飲食をするつもりは毛頭ない。 「今の情報で儲けて…ツケの清算と…クレカ決済の端末…導入しといて…。現金持ち歩いてないから…」  返事は聞かず、カランというドアベルの音とともに店の外に出た。  端末からアプリでタクシーを呼ぶ。  このまま職場に向かうことも考えたが、『彼』の現住所が近いので、寄っていこうと思い立った。  昨晩はシフトが入っていたはずなのでまだ寝ているかもしれないが、早朝から取り込み中だった場合、営みを邪魔する気は一切ない。  「お構いなく」の一言で部屋の外で待機させてもらうのもいいかもしれないなどと色々企みながら、やってきたタクシーに乗り込み、八重崎はその場を後にした。

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