あれは中学の頃、初めて雨城の家に泊まりに行った日の朝だった。 『隆（たか）ちゃん、今日は大丈夫だった？』 　リビングに降りていった俺たちを、心配そうな顔つきをした雨城の母親が待っていた。 『お友達を家に泊めるなんて初めてだから。あなたはこう、緊張すると……』 『か、母さんっ！』　 『だって、あなたは五年生まで……』 『ああああ！　わかったから！　やってない！　今日は大丈夫！』 　そこで雨城が焦って俺の耳を塞いだが、聞こえてしまった。 　おねしょ……。 　チラリと背後の雨城の顔を仰ぎ見ると、これ以上ないくらい真っ赤になっていた。 　他にもある。あれは雨城の家に遊びに行ったときだった。 『あら、蘭ちゃん、いらっしゃい。隆ちゃんは今、お買い物に行ってもらってるの。すぐに帰ってくるから、少し待ってて？』 　リビングのソファに座って、出されたお茶を飲んでいると、 『隆ちゃんが戻ってくるまで、これでも読んでて？』　 　そう言って、一冊のノートを手渡してくれた。 　俺はソファでそれを読んだ。 　手書きの拙い文字がぎっしりと並んでいた。 『これって……』 　交通事故で突然、異世界に飛ばされてしまった平凡な少年が、現代の科学知識を利用して悪を斃し、囚われていたお姫様を助け出す、という小説だった。もちろんお姫様は少年と相思相愛となる。 『それ、隆ちゃんが小学生の頃書いたお話なのよ。あの子すごいでしょ？　文才もあるの』 　茶菓子を持ってきた母親がコロコロと笑って俺に説明を始めたときだった。 『ただいま～』 　玄関から、この惨事をまだ知らない雨城の呑気な声が聞こえた……。 　雨城の母親・麗子（れいこ）さんは、一言で言えば『無邪気』だ。 　大学卒業と同時に結婚をし、社会に出たことはないらしい。この世の汚いものなど、何ひとつ知らないかのように、天真爛漫で無垢なのだ。 　雨城の名前は『隆利（たかとし）』というのだが、出生届に『楽園』と書いて『えでん』という読み仮名が書かれているのを、提出寸前に父親が発見し、なんとか阻止したという話も聞いたことがある。 　そういう逸話に事欠かない麗子さんだが、雨城のことをとても愛していることは伝わってくる。それに、雨城の綺麗な顔は麗子さん似だ。 ……どんな親でも、俺にとっては羨ましいんだけどな。 「え、あのことって何？」 　向かいから、志岐が興味津々といった顔つきで訊いてくる。 「わ、わかった、蘭太郎、わかったから。依頼を受けることは許そう。だがそれには、ひとつ、条件がある」 　志岐を牽制するように、雨城がわざとらしい咳払いをした。 「蘭太郎がモデルをするときは、俺も立ち会う」 「雨城、おまえ何勝手に……」 「そうだよ、雨城さん、邪魔しないでよね」 　志岐が口を尖らせて抗議したとき、彼のスマホの着信音が鳴り響いた。 「あ、もしもし。うん、うん、わかった、すぐ行く」 　志岐は通話を切ると、 「母さんから。下が混んできたから手伝いに来いって」 　残念そうにそう説明し、バッグを肩に担いだ。 「じゃ、蘭さん、また今度詳しくね。雨城さんが居ないときに！」 「おまえっ」 「ああ、またな」 　俺は手を振って颯爽と玄関から出て行く志岐を見送る。