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第2話③
「終わった! 蘭さん、もういいよ」
僕は椅子から立ち上がると、床に脱ぎ捨てられていた蘭さんのシャツを取り、その肩に掛けた。そしてそのまま、背後から抱き着く。
「おい、志岐」
蘭さんは僕を窘めるような声を上げるが、嫌がる素振りは見せない。
「ごめんね、身体冷えちゃったでしょ? 僕が温めてあげる」
腹側に腕を回し、ギュッと抱き締めた。
「ああ、ありがと」
クスッと笑い、蘭さんは僕にされるままになる。
抵抗されないことをいいことに、僕は蘭さんの広い背中に頬擦りし、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
――僕はわかってる。
蘭さんの中で僕は、出会った頃の小学生のままなんだ。
「でもまだ、色とか塗らなきゃならないんだろ?」
「うん、でも続きは学校の美術室でやるよ。ここでやると事務所に匂いがついちゃうしね」
自宅でも油絵の具を使うことは両親から禁止されている。喫茶店にまでその匂いが流れてしまうからだ。それに、僕の絵は写実的なものではない。僕の心を通して見える、事物の本当の色を描き出すんだ。
僕は子供の頃から、人よりたくさんの色が見えた。
色もそうだけど、建築物の構造美だとか、役者の演技だとかに、すぐに心を揺すぶられて、涙が溢れてしまう。感動で、何日も他の何も手につかなくなることすらある。
みんながそうじゃないことに気づいたのは、小学校に上がった頃だった。
『感受性の強い子』
親や教師は、そんな言葉で、僕のことを理解したつもりになっていた。
もちろん、そんな僕に友達なんてできず、ひとりぼっちで過ごすことが多くなった。
そんなときだった。上階に蘭さんが引っ越してきたのは。
……なんて、綺麗な人なんだろう。
子供ながらに見惚れてしまったのを覚えている。
『綺麗』って言葉は、女性に使うものだと今ならわかる。でも僕は率直にそう感じたんだ。
その頃、両親が苦心して作り上げたナポリタンのレシピのお陰で、地元紙にも取り上げられるほど、喫茶店は繁盛していた。日曜日はいつも、ビルの階段の上がり口で、通りを左右に流れていく人々を、何をするでもなくひとり眺めているのが常だった。
その日も、蝉が鳴く、初夏の日曜だった。
「君が、志岐?」
階段を下りてきて、声を掛けてきたのは、蘭さんだった。
「……うん」
少しの警戒心が混じった声で頷き返す。
「今日は俺と出かけるんだ」
今思えば、手が離せない両親が、何でも屋の蘭さんに僕のお守りを依頼したんだろう。
「行くぞ」
すっと手を差し出された。
僕は蘭さんの顔を見上げた。大人が見せる子供に媚びを売る笑顔なんてそこには微塵もなく、ただ、まっすぐに僕の瞳を見つめていた。
「うん」
僕はその手を、躊躇なく掴んだ。
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