9 / 12

第2話④

『どこに行きたい?』なんて訊かれることもなく、蘭さんに一方的に連れて来られたのは、子供が喜びそうな遊園地でも動物園でもなく、美術館だった。  初めて訪れた美術館という場所は、外とは違ってとっても涼しくて、そして、静寂に満ちていた。 「あ、あれ?」  いつの間にか手が離されていて、辺りを見回す。蘭さんは僕なんかお構いなしに、勝手に先へと進み、少し腰を屈めて絵を見ていた。  ここでは、順に絵を見ていけばいいんだな。  蘭さんや他の来館者の姿を参考に、僕も壁に並んでいる絵を見てみた。 「……!」  何時代の何という流派の誰が描いたのか、子供の僕には、そんなこと知る由もなかった。  けれど。  初めて見た。本物の絵。  テレビや本で見たものとはまるで違った。  僕は衝撃のようなものを感じ、目頭が熱くなった。  僕と同じものが見える人が居る。 「ああ……」  今まで心の内で溢れかえっていた、苦しいほどの感情を、表現する手立てを見つけた瞬間だった。 「お、おい、どうした、志岐?」  慌てて蘭さんが駆け寄ってきてくれた。僕は蘭さんに抱き着いて、わんわん泣いた。 その後すぐに、僕も絵を描き始めた。 「本当にありがとうね。できあがったら一番に蘭さんに見せるから」  そう言って、僕は蘭さんを腕から解放した。 「ああ。楽しみにしてる」  蘭さんはシャツを着ると、ズボンも穿いた。 「そう言えば、雨城さん、どこ行ったのかな?」  振り返ると、応接テーブルの上にはふたつのコーヒーカップだけが律義に並んでいる。 「さあな」  そう言った蘭さんの声が、なぜだか少しだけ不機嫌に聞こえた。  荷物を片付けてしまうと僕はイーゼルを抱えた。 「じゃあ、あとで報酬の晩ご飯持ってくるから。リクエストは?」 「ナポリタン」  即座に蘭さんがそう答えて、僕たちは笑った。  なぜあの日、蘭さんが僕を美術館に連れて行ってくれたのかはわからない。ただ自分が行きたかっただけなのかもしれない。  でも、蘭さんは僕の感情を解放する術を教えてくれた恩人なんだ。 ――蘭さんには、ずっと、笑っていてほしい。

ともだちにシェアしよう!