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第15話 愛の歌
その速さは尋常じゃなかった。息をするのも必死になるくらいで、スポーツカーがフルスロットルで走るのとどちらが速いのだろうか。少なくとも足を痛めているから全力ではないし、更に森の中を速度を落とさずに突き進む機動性を備えてはいないから、白月の方が速いかもしれない。
「この森を抜けた先に橋がある。そこを渡ったら、中つ国だ」
中央は貴族が住んでいる国だという。煌びやかな装飾の施された家々が立ち並んでいる様子が思い浮かぶ。しかし、それも赤麗が金庫に火を放ったことでどうなったかわからない。
赤麗を突き動かしているのは、一体何なのだろうか。どんな手段を取ってでも帝になろうとしている姿は、痛々しくもある。
もしかしたら、洗脳されているのは、赤麗の方なのかもしれない。幼い頃から帝に成ることだけを強いられて、そうでなければ生きている価値がないとさえと言われて育った彼には、余裕など一度も無かったのかもしれない。
あの高慢な態度も、帝になる者として弱みを見せるわけにはいかなかったから、そうなっていったのだ。
帝になるということ。今もその呪縛に囚われてもがき苦しんでいるのだとしたら――。
そこまで考えて、俺は首を振った。情状酌量の余地はある。しかし、これ以上誰かが傷付くようなことはあってはならない。そしてこれ以上赤麗に罪を重ねさせるわけにはいかない。
森を抜けると、橋の前に立派な建物が建っていた。青羅が言っていた歴代の青龍の王が住んだという館だろう。その横を通り抜けて、俺達は橋の前に着くと、中央の国の方からこちら側へ多くの人が駆け込んできていた。
「は、白月様……!」
太った男が持てるだけの家財道具を背負って走ってくる。白月は長く宮廷で育ったから顔なじみもいるのだろう。顔面蒼白で倒れ込むように白月の足元に座り込む。
「赤麗様が暴れていて、宮殿が滅茶苦茶になっているんです……!」
「宮廷の皆は無事なのか」
「はい! 青羅様が私達を守りながら戦ってくれて、誰一人大事有りません……!」
赤麗は青羅の性格を知っている。必ず身を挺して人民を守るだろうと予想して攻撃しているのだ。
「皆の者! 白月様が橋をお通りなさる! 道を開けよ!」
男の声に橋を渡ろうとしていた者達が歩みを止め、おかげでようやく白月が通れるようになった。
「お気をつけて!」
「有難う。でも僕は北の王黒威殿と麒麟の君をお連れするまで。お二人の力が有れば心配は要らない。どうか皆にもそのように伝えてくれ」
そう言って白月は、橋を渡った。さり気無く俺達に花を持たせてくれるのだから、白月が良き王である所以を少し垣間見た気がした。
橋の下を覗くとそこは海で、激しくうねっていて泳ぐことはできそうにない。それ以前に、落ちたらひとたまりもないくらいの高さがあった。絶対に落ちるわけにはいかないと、必死にしがみ付く。
島の淵に沿うように十メートルほどの壁がそそり立っていて、長い橋を渡り切ると、大きな門が口を開けて出迎えてくれた。
門を潜ると中心に向かって真っ直ぐに伸びた大きな通りに出た。そこから見えた景色に、言葉を失った。
「宮殿が……燃えてる……」
先程まで冷静だった白月の声が震えていた。当然だ。自分の生まれ育った地が炎に包まれ跡形もなく消えていたのだから。
「白月、黄太。お前達はここに居ろ。後は俺が一人で行く」
黒威が一人で白月から降りようとするのを、腕を掴んで止める。
「何言ってんだよ! 戦うのに役に立たなくても、人一人くらい抱えて逃げるくらいは出来る! 俺が、麒麟が争いの火種なんだろ! だったら最後まで見届けさせろよ!」
黒威の答えを聞く前に、白月が走り出し、慌ててしがみ付いた。
「僕も四神の一人として、黒威兄様の選んだ道を見届けるよ」
すると、黒煙を上げながら燃える宮殿の上空に朱雀と青龍が飛び立った。間髪入れずに羽根から炎を振るい落とす赤麗に対して、樹木を生やし盾にする防戦一方の青羅。しかし、樹木の盾では一瞬で燃えて消えてしまい、度重なる攻撃に対して全てを防ぎきれず、何度も青羅の身体に火の粉が降りかかる。
このままでは危ない、とそう思った次の瞬間、宮殿を燃やしていた炎が一つに纏まり、火柱となって青羅の身体を包み込んだのだ。
「クソッ、間に合わなかったか……!」
黒威の悲痛に満ちた言葉の後、火柱が消え、炎に包まれて落下していく青羅が見えた。
「青羅ッ!」
宮殿に辿り着き、俺は白月の背から飛び降りて、青羅の落下地点目がけて走った。そこには屋根の上に落ちたのか、崩れた木の燃え滓の中に横たわる青羅の姿があった。
重度の火傷を負い、意識も無いまま、辛うじて呼吸をしている無残な姿の青羅を抱き起こした。つい数時間前まで笑顔だった男の姿を思い出し、身体が震えた。
「どうしてこんな……」
少し離れたところに赤麗が人の姿に戻り、降り立った。まだ怪我が回復しきっていないのだろう。足を引き摺っている。そして、青羅からも攻撃を受けたのか片腕から血を流していた。
「どうしてこんな酷いことが出来るんだよッ……!」
かつてあったのだろう豪奢な宮殿や花々に彩られた庭園、奏楽を愉しむ貴族たちの姿は跡形もない。今は灰と干上がった池、息も絶え絶えの青羅の姿があるだけだ。この絶望的な光景に、俺は怒りよりも悲しみの方が強く湧き上がってきて、戦いを止めることができなかったどうしようもない憤りに奥歯を噛み締めた。
「……こんなもの、初めから要らなかった」
赤麗は血走った眼で青羅を見、声を震わせてそう言った。その姿は、最早朱雀の王赤麗ではなかった。今目の前に横たわる瀕死の兄を見て罪の重さに押し潰されそうになっている弟の姿が、そこにはあった。
「宮殿も……帝も四神も、何もかも……! 初めから要らなかった……! 私は何も欲しくなかった……!」
癇癪を起した子供のように喚く。声を上げていなければ、正気を保っていられないかのように。
「ただ、愛に飢えていたんだ……帝になれば愛されると思った。普通の人間として扱われると、信じていた……だが、それも叶わない……私は、要らなかったのだ……」
赤麗の目からはらはらと涙が零れ落ちる。生まれてからずっと帝に成るという重責を背負わされてきたのだろう。子供が子供らしく母親に甘えることさえ許されずに。それが彼をここまで追い詰めたのだ。
「僕はずっと兄様を愛しています……! だから、必要ないなんて言わないで下さい……!」
人の姿に戻った白月が目に涙を浮かべて声を上げる。しかし、赤麗は嘲笑を浮かべて白月を見据えた。
「……お前のそれは愛などではない。作られた、偽物だ。私がそう仕組んだのだからな」
「そんなこと……そんなことないっ……僕は、兄様を心から……」
白月は膝を折り、それ以上は言葉に詰まって続けることが出来なかった。
項垂れ深く息を吐き出し、赤麗はかつてそこにあったものと決別するように黒こげの木板を蹴飛ばした。
「……もう、総てを終わりにする」
赤麗の片腕が炎に包まれる。顔を上げた赤麗と目が合った、と思った瞬間には、赤麗が一直線に俺の方に走り出していた。
「逃げてどうする、赤麗」
黒い影に視界を遮られると同時に顔に何か生暖かいものが降りかかった。それが何かを理解する前に、目の前の人影の声を聴いて呆然とする。
「目を背けるな。お前が見ようとしなかったら、見えるわけがないだろう。お前の欲する、愛する者の姿さえも」
人影の向こう側に、赤麗が居るのが分かった。それは、その身体を貫いて、赤い血に塗れた彼の手が、目の前にあったから。
「終わりにするんじゃない。今ここから始めるんだ。俺達の、俺達だけの人生を」
手が引き抜かれ、身体の向こう側で重い物が地面に落とされるような鈍い音と、絶叫に近い啼泣する声が聞こえた。
「黄太、怪我はないか」
振り返ったその男の優しい笑顔に胸が張り裂けそうだった。
「他人の心配してる場合かよ……! お前、血がっ……!」
ぐらりと黒威の身体が揺れたかと思うと、俺の上に覆い被さるように倒れ込む。俺は黒威の背中に腕を回し抱き寄せて、必死に胸に空いた穴を手で押さえた。しかし、傷口が大きく、指の間から温かい血が流れ出る。
「しっかりしろ! 東の国の塗り薬で、傷塞いでやるからな!」
「はは……またあの劇薬を塗られるのか……最悪だな」
前に白月に負わされた怪我とは大きさも違うが、傷口を火で焼き切られているせいで出血が多い。損傷も激しく塗り薬でどうこうなる傷ではないと頭では分かっていた。それでも、何か、どうにかしたいという想いが溢れる。
「がはっ……!」
激しく咳き込むと同時に、俺の肩口に温かい液体が掛かる。
「黒威っ……!」
段々と黒威の身体が冷たくなっていくのが分かる。呼吸も浅い。
「ああ……これは不味いな……目が霞んでよく見えん」
「馬鹿野郎ッ……! 俺達の人生を始めるとか大口叩いといて、何でテメエが死にそうになってんだよっ……!」
ひゅうひゅうと息苦しそうに呼吸を繰り返しながら、黒威は息を鼻に掛けるように笑った。
「……一つ、頼みたいことがあるんだが」
「何だよ……一つでも二つでも聞いてやらあ……!」
俺は溢れそうになる涙を必死に堪えて、黒威の身体を抱き締めた。
「最期に……お前の歌が聴きたい」
最期――その言葉に胸が締め付けられる。
数日だ。黒威と出会って、まだそれぐらいしか経っていない。まともに話したのも、つい最近の出来事だ。それなのに、どうしてこんなに苦しくて、辛くて悲しくて、愛おしくて仕方ないんだろう。
俺は長く息を吐いて呼吸を整え、目を閉じた。アカペラでなんて、歌ったことがなかったけれど、俺は今自分の中にある想いを込めて歌った。涙声でろくに音程も取れていない酷い歌だったけれど、さっきよりもずっと想いが籠ったラブバラードだった。
歌い終わり、目を開ける。全身に感じる黒威の重みに、どうしようもなくせり上がってくる愛おしさと悲しみに嗚咽を漏らしながら涙するしかなかった。
「……どういうことだ」
赤麗の動揺する声に顔を上げると、俺は一変した目の前の光景に目を見開いた。
赤麗の足元に花が咲いていたのだ。それも、一つや二つではない。数十、数百の赤や黄色の美しい花が咲き乱れていた。
白月が呆然とした様子で立ち上がる。と、何かに気付いたように自分の足をさすった。
「どうして……足が……治ってる」
その言葉に、赤麗も自分の脇腹に触れ、そして腕にあった傷を探した。確かに先程まで血が流れていたのに、跡形も無くなっている。
「……私は、一体……」
戸惑う声に振り向くと、青羅が身体を起こしていた。重傷の火傷を負っていたはずが、以前と変わらない、傷一つない姿で。
俺は狐につままれたような気分で、その光景を見ていた。
「『回生の麒麟妃』」
「え……?」
直ぐ側で聞こえた声に頭が真っ白になる。しかし、掌、身体に触れた部分から感じる温もりに、俺はそれがどういうことなのかを理解する。
「麒麟の中には、不老不死ではなく再生の能力を持った者が、千年に一度現れると伝えられている」
濃紺の瞳が俺の顔を覗き込んでいる。そして涙の跡を拭うように、俺の頬に優しく触れた。
「それが黄太、お前だ」
何の話をされているのか理解が追い付かなかったが、黒威が生きて、今俺に微笑みかけているという事実に、喜びが溢れ、涙が零れ落ちた。
と、次の瞬間、唇に柔らかなものが触れる感覚がして固まった。目の前に黒威の顔がある。事態を把握できないまま混乱しているうちに唇は離れ、ただ残った感触が、今何が起こったのかを物語っていた。
「ちょっと待って。良い雰囲気のところ悪いんだけど……もしかしてそのことに気付いてたの?」
突然の事態に顔を熱くしていると、白月が怪訝な顔で黒威に訊ねる。
「気付いていたというか……何となくそうなんじゃないかと思っていた」
黒威が少し言い難そうに口籠りながら言う。
「黄太が歌った時、金色の光に包まれた。その後白月と争っていた時に、腹の傷が無くなっていることに気付いた。もしかしたら、と」
「……あの輝いてるって、ほんとに輝いてるってことだったのか……?」
すっかりこの世界の褒め言葉だと思い込んでいたので、とんだ勘違いに気恥ずかしくなる。
と同時に、先程「最期に」などと意味深なことを言っていた目の前の男に対する怒りが沸々と湧いてきた。
「テメエ騙しやがったなっ! 今にも死にますみたいな雰囲気出しやがって!」
「死にそうだったのは事実だ。それが奇跡的に助かったんだ」
俺は黒威に掴み掛かったが、服に空いた大きな穴に気付いて殴りたい気持ちを抑える。
「全部黄太のおかげだ」
そう目を細めて穏やかに微笑む黒威に、不満も怒りも途端に鎮まって、気付くと自然と笑みを返していた。
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