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第10話
星も月も出ていない暗い夜だ。
フロントカメラには広々とした駐車場とそれを照らす街灯がポツンポツンと遠くに映っている。リアカメラは樹木の茂みだろうか、こんもりとした影が映っているのみだ。
この車はどこか郊外の、空港駐車場のような場所のさらに端の方に止まっている。
と、画面が上下に揺れた。男の笑い声が聞こえる。
「車では嫌だっていっただろう」司の声を遮るように「俺は好きなんだ」と男‐これが司の元彼、葛城だろう‐の声がかぶさる。ぴちゃぴちゃと水っぽい音がする。
さっき聞いたのとは違う我慢に我慢を重ねたような司の喘ぎ声が苦しそうだ。それが興奮するらしく、葛城の息は次第に荒くなっていった。
「いい顔だ瀬堂、俺のものだ、瀬堂。……俺のものだと、言え」
映像は二分あったが、哲也は耐えられなくなって三十秒ほどで停止させた。
司がいますぐに確認したいというので、事務所に入って哲也のパソコンでファイルを開いたのだが、こんなことになるとは思ってもみなかった。
司の顔を見るのが怖い。自分の性交渉の現場音声を聞かれるなど、プライドの高い司が耐えられるはずがない。怒りと羞恥に震える姿を想像しながら、そっと椅子から司を見上げた。
デスクの横に立つ司はパソコンの光に照らされて、笑っていた。最初はくっくっくと押さえていたが、次第に高笑いへと変わっていった。
「下司が!ゲイバレが怖くてカーセックスが大好きだなんてどんな変態なんだ!」
復讐の青白い炎が司からの背後に見えるようだった。
「……そんな化け物を見るような目で見るなよ」
哲也は司の言葉が自分に向けられているのにすぐに気づけなかった。
「そんな顔、してたか?……ごめん」
「いや、僕の方がいかれてるんだろう。復讐の材料を手に入れて興奮している。嬉しすぎて頭がおかしくなりそうだ。……そのマウスを貸してくれ」
「え……データをどうかするのか?」
「弁護士に送る」
哲也は反射的にマウスをぎゅっと握った。
「でも、弁護士に……他人にこんなもの見せて、いいのか?」
「恥ずかしくないのかってことか?」
「そうじゃない、でも……俺なら、こんなプライベートなものを他人にみせるのは……つらさに負けそうだ」
「僕だって恥ずかしいし、あんな奴と付き合ってたという事実がつらい。でもこのまま濡れ衣を着せられたままの方がずっとつらい」
「自分よりも……自分の名誉が大事なのか?」
事務所のブラインドの隙間から街灯のオレンジ色の光が射し込み、司の顔はちょうど逆光になった。顔はは闇に沈み、表情は定かではなかったが、あの酷薄そうな目がだけが白く光っていた。
「僕にとって大事なのは、名誉だ。……マウスを貸してくれ」
哲也はマウスを手放した。
哲也は司の誇り高さに、身がしびれるほど憧れた。肉を斬らせて骨を断つ、刃のような精神力を美しいと感じた。
しかし、司が自分とは違う世界の人間だとも思い知らされた。
職があり、家があり、理解者がいて、社会的に小さな仕事でも必要とされている。そんな生ぬるく狭い世界で生きている自分とは全く違うのだ。
司を愛する心は失われてはいない。愛が深いほど、厳然と存在する断絶に、絶望を感じた。
哲也は作り笑いを浮かべた。大人なんだから、泣いたりわめいたりはしない。
「東京、帰るんだな……よかった、な」
マウスがかちりと鳴って、止まった。弁護士への連絡作業が終わったのだろう。司はメモリーカードを取り出した後もそのまま身じろぎもせず、事務所の薄暗がりを見つめ続けた。
「僕は、東京に、帰るよ」
機械のように無感情に、きれぎれに、司はつぶやいた。
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