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荊棘(終)
ダイスの目は2つとも「5」合わせて「10」だ。
「で?…これが何だ」
「玲司、これを貸してやる…持っていけ」
「?」
宗斗がテーブルの上に置いたのは空のアタッシュケース。
「ダイスの目×100…1000だ、つまり沙希の価格は1000万だな…それを現金で用意して見せろ…あくまで条件だ、用意するだけで良い…クリア出来たら金も沙希も返してやる…逆なら、どっちも戻らないぜ」
「…っ…結局は金、かよ」
「馬鹿馬鹿しい…玲司、相手にする事ありませんよ!警察に突き出してやりましょう」
「お?何だ、降参か?…別にこっちは構わねぇぞ…ただな、ダイス振った以上…降りるなら沙希は好きにさせてもらう…とりあえず」
割ったビール瓶を持って鋭い割れ口を沙希の顔に向ける宗斗。
「っ……あ、ぁ」
顔に向かってくる鋭いガラス。沙希は膝を震わせて今にも腰を抜かしそうだ。
「やめろ、降りるとは言ってねぇだろ…」
「玲司…どうするつもりですか…1000万なんて大金、しかも現金を用意出来るんですか」
「……どうって、まだ考えてねぇよ」
「考えてない?!…いえ、ここで僕らが言い合っても解決になりませんね、やめましょう」
「……」
「それと、もうひとつ…いくら大金でも時間さえあれば、用意できない額じゃない…そこでだ、この条件には時間制限がある…だから早く振れと言ってやったんだ、優しいだろ?」
「何…」
「いつまでですか」
「0時だ、1分でも過ぎたら沙希にはそれなりの代償を払ってもらう…今の内に拝んでおけよ、この綺麗な顔を観れるのも後……たった4時間だ」
「「!!」」
玲司とアストが絶句すると宗斗は声を上げて笑った。
「無茶ですよ、たった4時間で1000万なんて…金融もATMも多くは閉まっています、すぐに用意できる訳が…」
捲し立てていたアストは沙希を見ると言葉を飲み込んだ。わざわざ言わなくても、この状況が絶望である事は誰もが分かっている。
「アタッシュケースにメモと鍵が入ってる、俺の連れがやってるホテルだ…用意できたらソコに来い…時間までは沙希にも手は出さないでおいてやる…ほら、早く行った方がいいんじゃないか?」
パンパンと手を叩いて急かす宗斗。玲司は悔しそうにアタッシュケースを掴み取った。
「玲司…」
「待ってろ、沙希…何とかする」
「…うん…でも、もし無理でもさ…恨んだりしねぇから」
「…宗斗、金さえ用意したら本当に沙希を渡すんだろうな」
「ああ約束だ、用意出来ればの話だけどな」
「…分かった」
「玲司、とにかく行きますよ」
部屋を駆け出ていく玲司とアスト。駐車場まで走りながらアストが口を開く。
「ロジエに行きましょう」
「ロジエ?」
「霧ノ堀はすぐそこです…言うまでもありませんが店には入りませんよ!善を呼び出して交渉してみましょう、最速で大金を用意できる可能性があるのはあの人くらいしか思いつきません…僕が事情を話せば協力してくれるはずです」
「アス、お前…」
「勘違いしないで下さい、こんな厄介事、大迷惑ですよ!沙希にはこの件が終わったら出て行って貰います、ただ僕もダイスを振れば良いと言いましたから、その発言に責任を持って協力するだけです…せめてどちらかが小さい数字を出してくれれば、何とかなったかもしれないものを!運のない人たちですね!部屋にドラセナでも飾ったらどうですか!」
ドラセナとは幸福の木と呼ばれる観葉植物だ。
「アタッシュケース用意してある時点で、あのダイス自体も怪しいもんだろ」
宗斗に逆らった者達が何人も酷い目に遭っているのを見たと言う沙希の証言も、あのダイスの勝率が極めて低いことを示している。
「な…確かに…って!あなた、怪しいと分かってたのにこんな理不尽な条件を丸呑みしたんですか!」
「このやり方で負かさねぇと、アイツは沙希を渡さないと思ったんだよ」
「っ、どうしていつも面倒を起こす人を好んで寄せ付けるんです?!」
「知ってるだろ、悪いクセだ」
「開き直らないで下さい!」
玲司とアストが出て行った後すぐ。車の鍵を持って立ち上がる宗斗。
「沙希、行くぞ」
「…車?」
「宗斗さん、鬼っすねぇ…宗斗さんの連れのホテルって、飛ばしても車で1時間以上かかるのに」
「!!」
沙希が目を見開いて宗斗を見た。
「移動時間を差し引くと3時間もねぇな…気づいた時の顔を見れないのは残念だ」
「最初から、取引する気…無かったのかよ」
「取引してるじゃねぇか」
「してない…最初から無理なんじゃん!あいつら、俺のために今頃必死になってくれてるのに!」
「そいつは悪かったな…行くぞ」
「それに車はダメだろ!さっきビール飲んでた!しかも瓶で!」
「あー…うるせぇな」
然程気にもしない様子で沙希の髪を掴んで引っ張って行く宗斗。
「離せよ…痛い!せめて運転、誰かに代われよ!」
「なぁ沙希…初めてだな、お前が俺に逆らうのは」
「…っ」
「もし、二度と離れようとしないって誓うなら…今回だけ許してやっても良いぜ」
「……」
「他のやつなら容赦しねぇ…可愛いお前だからだ」
「…俺、あいつ待つから」
「ハ…何だ、惚れたのか?期待しても傷つくだけだぞ」
「それでもいい…俺も時間までは諦めない」
「残念だな…お前の綺麗な顔を潰すなんて…したく無かったんだけどよ」
耳元で囁かれた代償。震え上がるような恐怖が沙希を襲った。
「……く、ぅ」
「強がるなよ、声も出ないくらい恐くてたまらねぇんだろ?」
ストレスで痛みを訴える胃。胃液が逆流してくる感覚。宗斗の車に無理やり放り込まれて後部座席に腹を抱えて横になり苦しそうに顔を歪める沙希。
(……終わったかもしんない)
霧ノ堀で上位にランクインする人気ホストクラブrosier。今日も既に満員御礼状態だ。客の女性達の待機列から少し離れて居心地悪そうに待つ玲司とアスト。アストに至っては店のパネルを睨み付けている。
「何が面白いのか分かりません、まさか僕がこんな店の前で立ち止まる日が来るなんて」
「俺にも無縁だな」
善は指名客の接客中らしく、話に来れるのも一瞬だと言う。その一瞬の為の待ち時間が長い。
商店街の一角で夜だけ繁華する夜行性の空間。煌びやかなキャバ嬢達が、同伴者と歩いている。
「明梨ちゃん!これ欲しがってた時計だよ」
「ありがとぉ、明梨嬉しい!付けてるとこ明梨のMEMOMにアップするね!絶対グッド♡してね」
そんな楽しそうな会話が通り過ぎていく。しかし一方では苛つく声。
「あの明梨って新人、何様?お金に困ると小遣い稼ぎに出て来るだけのくせに私の客と同伴!?」
「絶対、辞めさせてやる」
裏を返せば泥沼、不安定な夢幻の埋立地。ある意味では此処は霧ノ堀という名前に最も相応しい場所なのかもしれない。
「アスちゃん、どうしたの?!」
「遅い!10分も無駄にしました!」
アストがrosierを訪ねて来るなどと夢にも思っていなかった善は急いで出て来たのか少し息を切らしている。一体何事かと驚いているようだ。そして善の登場に待機列の女性客が騒がしい。話をするには向かない状況だ。
「夕くーん、来てるよー」
「いらっしゃい、後でね」
『夕』が愛想を振りまくのに忙しく話が進まない。アストは苛ついた様子で善のスーツを掴んで裏の方にと引っ張り込む。
「お互いに時間が無いので手短に説明します」
「うん」
「不本意ではありますが、玲司のせいで不良共から沙希を取り戻すことになりました」
「…さき…2-C号室の沙希ちゃんの事で合ってる?」
「その沙希です、僕がいつも迷惑だと言っている、あの2-C号室です!」
「明日、みんなで管理人さんに掛け合うか多数決取るんだったよね…俺はアスちゃんに合わせるよ」
「ええ、追い出すのは明日です!でも今日は返してもらうんです!」
「よく分からないけど、俺に何が出来る?アスちゃんがわざわざ俺の所に来るなんて…行き詰まって困ってるとしか思えない…力になるよ」
嫌な顔一つせず、胸に手を当てて忠誠でも誓っているかのような善。玲司はまったく出る幕がない。
「それは認めます、というか他に来る理由がありません…不良共は卑怯な手を使って、沙希と引き換えに現金を要求して来ました、用意できればそのお金も沙希も返すと言っています、何の見返りも払えませんが、貸せるだけ貸してください」
一聞すると、とんでもない要求だ。しかし善の気がかりは、少し違う部分だった。
「それは、現金しかダメ?」
「現金で、という指定です」
「そう…俺、基本キャッシュレスだから…現金となるとすぐには厳しいけど、いくら必要?」
「1000万です」
予想を10倍ほど超えて来た額に、さすがの善も言葉を失う。
「そうなるよな…」
「ごめん…ちょっと待ってて、出来るだけの協力はするよ」
そんな大金を現金で持ち合わせている人間など滅多に居ない。何とかアストの力になりたい善は少ない時間の中、可能な限り手を尽くしてくれた。一度、店に戻ってから数分。厚い封筒を手に再び出てきた善は、それを迷う事なくアストに差し出した。
「…これは」
「…少なくてごめんねアスちゃん」
「少ない?貴方の感覚には付いていけません…これ、まさかお店のお金ですか?貸してくれとは言いましたが、店のお金を持ち出すのは…」
「それは俺の手持ちと、うちのNo. 1から借りてきた分」
「善…悪い、助かる」
「仕事中でなければもう少し助けてあげられたんだけど…」
「充分だ…ありがとな」
「それより玲司…アスちゃんを連れ回して、危険な目に遭わせたら俺、怒るよ?」
既にアストも連れ去られて監禁されるという危険な目に遭った後だとは言い出し難い。
「…これ以上は遭わせねぇよ」
「これ以上?」
善の目から優しさが消えた。表情は笑っているのに、怒りを感じさせる気配。アストは溜息を吐いてアタッシュケースに善から受け取った金を入れた。
「玲司、行きますよ!手分けして掻き集めましょう…結局それしかありません」
「あ、ああ…」
「善、感謝します」
善の追求から逃れるように走り去る2人。
「おい、夕…そろそろ戻れ」
「皇…ごめん、いきなり無茶言って」
「手切金か?孕ませたんじゃねぇだろうな」
「違うよ…明日には返すから」
「お前が切羽詰まるのは珍しいな…まぁ、いいけどよ」
閉店後のlibertà。玲司とアストは一度別れて手分けした後そこで合流した。
「すみません梶本さん、こんな事にリベルタをお借りしてしまって」
テーブルの上のアタッシュケースにはまだ空白が残っている。善のような特例を除けば借金を頼める仲の人間は玲司にもアストにも多くはない。出来ればしたくもない事だ。
「…で、集まりそうなのか」
事情を聞いた勇大は腕組みをして尋ねた。
「いや、けど…まだ2時間半ある」
「やるだけの事はやりました、もう警察に頼みましょう」
「どこに何の証拠があるんだよ…仮にそれで今日は誤魔化せても、明日からは逃げ続ける事になる…お前と同じ目に合うのが次は朔かもしれねぇぞ」
「明日には出て行ってもらうのだから問題ありません」
「その場凌げれば後はどうなっても良いのかよ…」
「…でも、無理なものは無理でしょう!」
「分かってる…このペースじゃ、全然間に合わない」
「善と貴方のお爺様のおかげで何とか7割には届きましたが…これが限界です」
「…だから言っただろう、無責任に餌をやるなと」
「沙希が根っからの悪なら、アスを助けに戻ったりしてねぇだろうが」
「そもそも僕があの不良共に連れて行かれたのは沙希のせいです!朔未さんまで怖い目に合わせて、許せません!」
「それは沙希のせいじゃねぇよ…俺のせいだ」
「え?」
「俺が強引に沙希をアイツらと引き離そうとした結果だ…嫌がらせの一つや二つは覚悟してたが、まさかヴァルトの住人を人質にされるとは思わなかった…甘く見てたつもりは無かったんだけどよ…悪い」
「…それにしても元凶は沙希です、今回の事だって言ってしまえば自業自得ですからね」
「責めるのは後にしてくれ…頼む」
大きく溜息を吐いて、集金の方法を考えている玲司。アストも眉間を押さえて考えを巡らせる。
「……」
客観視していた勇大が、レジの下の金庫を開けると取り出した茶封筒をテーブルの上に置く。行き詰まっていた2人の視線がそれに注目した。
「梶本…」
「これはリベルタの?!」
「違う、俺個人のものだ…前に忙しくて紙幣の両替が間に合わない事があってな…備えに置いてある…大した額は無いぞ」
「…いいのか」
「貸すだけだ」
「ありがとな…」
「あくまで連れ戻す為だ、身の安全を確保出来たら…次は追い出す」
「…それは明日話そうぜ」
「…ふん」
「梶本さん…」
思いがけない協力者に萎えきっていた気力が浮上する。しかし、茶封筒を入れる為に鍵とメモを退かした時、2人はそれに気づいた。メモに書かれていたホテルの名前と部屋番号。ホテルの名前に付いている地名は、此処から車でも1時間以上かかる場所だという事に。
「小関原ホテル…?」
「小関原と言うと…ずっと山の方ですよね」
「…ああ、車なら1時間半ってところだ…かなり山道を上がるぞ…行くならいつも以上に慎重にな…急いで飛ばして事故でも起こしたら崖に真っ逆さま…まず助からん」
「そんな道では下手にスピードも出せませんね…1時間半はかかると見て間違いありません」
「待てよ、それじゃあ残り時間は…」
「ギリギリまで粘って、1時間…」
「…あいつら!」
隠れていた更なる悪条件。不公平なダイス、多額の現金、短い制限時間、そして遠いゴール。
「あちらはゲームのクエスト感覚なんでしょうね、とことん馬鹿にしてくれてますよ…あぁ!腹立たしい!」
テーブルを両手で叩くアスト。
「近道は教えてやれるが、数分の差だ…これは、最初から負け戦だったんじゃねぇか?」
諭すように静かに言う勇大に2人は何も言い返せなかった。
「あの…もし、お金が間に合わなくても行く気ですか?玲司」
「ダメだった時の事、考えてる余裕ねぇよ」
「考えて下さい、もし行くと言うなら僕は貴方を力づくでも止めなくてはならない」
「…止める?」
「全力は尽くしますが、それでも負けた時…沙希と貴方、どちらかを犠牲にしなくてはならないなら……僕は迷いません」
「お前…何言ってるんだよ」
「現実的な話です…行けば、沙希諸共どんな目に合うか」
「アス、やめろ」
「例えば腕を折られでもしたら?貴方は仕事も運転も出来なくなりますよ、家族にも心配を掛けるでしょう?」
「……」
「玲司、そこまでして助ける価値が…彼にありますか?」
アストの言葉は玲司を心配しているが故の冷酷さを含む。人間の価値、それは本来平等であるべきはず。それでもいざ天秤にかけられた時に、多くの人はより親しい人間に味方する。時には謝りながら、誰かを沈めるのだ。
「アス…」
「行かないでください…僕は恨まれても構わない!」
「……」
「…行かないでください」
常に現実的に物事を考えるアスト。言っている本人も辛そうに唇を噛んでいる。玲司はそんな風に言わせてしまった事に罪悪感を抱いていた。玲司とアストは沙希よりも付き合いは長く親交もある。アストが玲司を引き止めるのは、決して沙希に対する敵意からではない。それが痛々しく伝わってくる。
小関原ホテル。山の中にあるレトロな雰囲気の観光用ホテルで、ライトアップされた山の自然を全室から眺めることが出来る。と言っても旅館のようにもてなし度は高くない。少し良いビジネスホテルと言ったところだ。利用者には登山客も多い。
「宗斗!」
部屋に着くなりまたも冷蔵庫から缶ビールを取り出した宗斗に沙希は声音を強めた。
「またか…いちいちうるせぇな」
「普段、そんなに飲まないじゃん…俺の事でイライラしてんのかもしれないけど、やめろよ」
「…そうだな、酒は苦手だ…親父を見てるからな」
「だからやめろって」
「お前を粛清するには酒でも入ってないと、情が出ちまうからよ…ハ、よくぶっ叩かれたな酔っ払いのクソ親父に…お前の親では想像も出来ないだろ」
「…父さん、付き合い程度しか飲まないから…母さんは飲んでも変わらないし」
シングルルームのベッドに腰掛けて缶ビールを開ける宗斗。沙希は説得を諦めて窓辺の椅子に座った。
「お前は体が大人でも、まだチビだった俺の弟と同じだな…いっつも母親にくっ付いて甘えてよ」
「…俺、くっ付いてない」
「ククッ、甘えてるのは認めるのか?母親の顔色窺ってご機嫌取り…弟はそうすれば可愛がってもらえるって本能的に分かってたんだろ…賢いよな、それに、純粋だ」
「子供はみんな純粋じゃん」
「俺は違った…だから、親父が死んだ後…やけに落ち着きなく出かけると言い出した母親について行く気にならなかった…弟は喜んでついて行って…二度と帰って来なかった」
「…もしかして付いて行かなかった事、後悔してんの?」
「ずっとな…」
「何で!ついて行かなかったから生きてんのに…」
「ああ、俺だけが生きてる…ついて行けば止められたかも知れない、俺も道連れにされてたかも知れないが…まぁ、今となってはどっちでもいい…ただ夢に見る、あの日出て行く時に見た母親の横顔、俺を一度だけ振り向いて…笑ったんだ」
「宗斗…」
「俺はお前が可愛くて、そして憎らしかった…父親に守られて、母親に愛でられて…俺が欲しかったものを全部持っておきながら…それが当たり前みたいな顔してよ…だからとことん搾り取って、汚して…俺と同じ所まで落ちぶれさせてやろうと決めた」
「…え」
「風俗店で働かせて、顔を潰せば…父親から絶縁されて母親にも愛されなくなる…だろ?」
「…っ」
「安心しろ、どんな形になっても…俺が可愛がってやるからよ」
「その方が俺も楽になれるのかも…って、車の中で思ってた…もう終わったって…でも、今日すげー楽しくてさ」
「楽しい?」
「玲司が紹介してくれた仕事ちょっとだけやって来たじゃん、それが楽しくて…俺、こいつらと居たいって思った…だからゴメン、宗斗…やっぱ諦めるの明日にする」
「…お前、意外と頑固なんだな」
「…俺、宗斗達を利用してたのかもしんない…気楽に付き合える仲間のフリして心のどっかで、優越感持ってたのかも…無意識に兄さん達には勝てない自分が、勝てる誰かを探してた…馬鹿にしてるよな…でも、これだけはホント…俺の居場所はココだって本気で思ってた…宗斗の言う通り、新しい居場所見つけたから乗り換えるって、都合よすぎ…ちゃんと向き合う…明日はお前の事、受け入れるから」
「ッフ…胸焼けしそうなくらい優しい目になりやがって」
「目なんて、1番変わらない所じゃん…あと胸焼けは絶対、酒のせい!」
「ハハ!そうかもな」
「…宗斗は分かんない」
「んー?」
「まるで2人居るみたい…恐い宗斗と、優しい宗斗」
鼻で笑いながら宗斗はスマホを操作するとタイマーをセットした。
「俺は、優しくねえ方だな」
窓の外には暗い山が見える。沙希は瞬きも忘れて山の向こうを見つめていた。
止まれと願うほど時は早く進む。
『どこ行くんだよ!何時に帰ってくる?!』
出て行く母親と幼い弟の背中に叫んだ。そして次の日には、2人はもう帰らないと知らない大人に説明された。山中で見つかった変わり果てた2人の姿は葬儀でも見る事が叶わず、宗斗は数回会ったことがある程度の親戚に引き取られた。
『どうして宗斗を残して逝ったんだろうね』
『1人残されて可哀想にな』
それは、悪意のない同情の会話だったが宗斗は自分も連れて行けば良かったのにと言われた気がして心を失っていった。そのまま反抗期を迎えて荒んだ生活をするようになった宗斗は親戚たちに喧嘩別れで家を追い出され、街を徘徊し悪い仲間の中に飛び込んで行く。何年もかけて、やがて底が見える所まで堕落した。
『何?お金欲しーの?』
いつものようにかつあげをしようとしたターゲットは声を掛ければ、目を奪われる美人。
『いや、気が変わった…金は要らない、お前をよこせ』
『あはっ、何それ?俺、男なんだけど』
『それも面白そうだ』
『ふーん…いーよ、遊ぼ』
怯える事も逃げる事もなく自分に擦り寄ってきた沙希の存在は宗斗の中で特別である事に偽りは無い。
(都合良く使ってたのは、お互い様だよなぁ…沙希)
孤独から目を背ける為に、いつでも側に居てくれる誰かが欲しかった。
「宗斗…起きたの?」
「あ?」
「いや、いきなりベッドに倒れたからビックリしたし」
「ああ…軽く寝ちまった、酒のせいか」
「…無理して飲むから」
「逃げるチャンスだったのに、大人しく待ってたのか」
「俺が逃げたら、もし玲司が来た時…何するか分かんないからさ」
「なるほど…確かにな…まだ諦めてねぇのか、あと30分しかないぜ」
「…あと30分したら諦める」
「ほう」
変わらない返事。宗斗は面白くなさそうに冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出した。
30分、20分、10分。カウントダウンが始まっても沙希は窓辺の椅子から立ち上がらない。ただ膝の上に握った拳が震え始める。
「…いい、別に来なくてもいい」
「…ふん」
この時点で、ホテルに続く道路に車のライトが見えないという事は来ないか間に合わないという事だ。
ずっと山の方を見ていた沙希がついに目を宗斗に向けた。そしてゆっくり立ち上がる。
「宗斗…俺」
「おっとっと、今更許してくれなんて言っても遅いぜ」
アラームの残り時間は残り5分。乾杯、と缶ビールを掲げて見せると飲み始めた宗斗の隙を突いて一気に脱出しようと動いた沙希。その行動も想定内だったのか宗斗はビールを飲み続けたまま沙希の踏み出した一歩に足を掛けて転倒させた。
「んぁ!」
「沙希…あと5分ある、そう焦るなよ」
「…っ、う…やだ…やっぱりヤダ!宗斗……助けて」
「それは玲司に言ったらどうだ?…ああ、まだ居ねえな」
探すように室内を見回して笑う宗斗。飲み干した缶ビールとスマホを持ち替えて沙希に現実を突きつける。間も無く残り1分を切ると数字はみるみるうちにその数を減らしていった。綺麗な深緑の目に映るカウントダウンはついに1桁になる。
「……玲司」
0:00。ピピピピ----と無情なアラーム音が部屋に鳴り渡った。部屋のドアは、開かなかった。
「がっかりだな…捨て身でも来る勢いだったが、あのチビにでも口説かれて冷めちまったか」
「う…っ、く…ぅああ!」
自力で逃げるしかない。沙希は立ち上がって宗斗と掴み合う。力の差は火を見るより明らか。揉み合ったのは数秒であっという間に髪を掴まれて動きを封じられた。
「これでお前も、楽になれるぜ…」
髪を引いて強制的に顎を上げさせると唇を合わせる宗斗。そして唇を離すと同時に閉ざされたドアに向かって沙希を強く突き飛ばす。
『やめてよ!お父さん!』
酒に酔って母親に暴力を振るっていた父親に向かって言ったのは自分や弟。ハッと目を見開く宗斗。
「沙希…!」
自分で突き飛ばした沙希を救おうと再び手を伸ばしたが間に合う訳もない。
「沙希!…ッな?!」
沙希が打ち付けられる直前に開いたドア。その為沙希の体はドアを押し開いた玲司に衝突する形になって2人は勢いで廊下側に倒れ込んだ。
「……?」
顔面を打ち付けられると思って目を瞑っていた沙希は思った程痛くない衝撃にゆっくりと目を開く。
視界に飛び込んで来たのは唇が頰に触れ合うくらいの至近距離にある玲司の顔。驚きの余り声も出なかった。
ピピピピ--。と最後のアラーム音が鳴り終わり、時計が0時1分に変わる。
「滑り込んで来やがったな…アラームは鳴り始めてたぜ」
「鳴り終わってもなかっただろ」
立ち上がってすぐさま反論する玲司。宗斗は0時を1分でも過ぎたら。という言い方をした。つまり0時のアラームが鳴り終わるまでは許容時間と言える。
「ふ、まあいい…入れ」
一度は諦めた玲司の登場。沙希は守るように前に立ってくれる玲司の背を蕩けそうに見ていた。
(…え、なにこれ…俺の願望?それとも夢?)
「それで?もうひとつの条件はどうした」
「確認しろよ」
ベッドの上に置かれたアタッシュケース。その中には敷き詰められた現金。宗斗の顔色が変わる。沙希も思わず凝視してしまった。
「玲司…コレ、ど、どうやって…」
「俺やアスだけじゃない、お前をヴァルトに連れて帰る為に協力してくれた奴らが何人も居る…そいつらのおかげだ」
多くは銀行の印鑑が押された封帯の付いた束。当然確認しても全て本物の現金だ。
「…まさか、集めてくるとな…余程タンス貯金が上手い奴らが周りに居たらしい」
「もし集められなくても来てたぜ…ダイスの半分は俺の責任だ…沙希と一緒に痛い目見てやるくらいしか出来なかったかも知れないけどな…それに」
「あ…」
玲司に手を取られて、沙希も瞬時にあの約束を思い出す。
「この手は絶対離すな…の約束破った方が、大暴れして大変そうだしよ」
「っは?!大暴れって何だよ!来なくても恨まないって言ったじゃん!人を怪獣みたいに言うなし!」
「怪獣か…まさにそれだな」
「むかつく!」
手を繋いだまま喧嘩をする様子が可笑しくて宗斗は止めずに見ていた。
「やれやれ…いい兄貴だな、お前は」
「兄弟が多いからよ…俺にもいい兄貴が居るしな」
「そうか…その甘ったれも上手く育ててやってくれや…親から自立するには、まだヨチヨチ歩きだ」
「…ハイハイだろ」
「なんで2人して俺のこと赤ちゃん扱いなんだよ!俺、ちゃんと働くし!そりゃ、最初はちょっと…ミスったり、親に助けてもらうかもだけど…それでも自立してくし!ヴァルトの奴らにも認めさせてやるから!」
「…言ったな沙希、それがお前を手放す最後の条件だ」
「…宗斗?」
「お前に宗斗は2人居るみたいって言われて、久しぶりにクソ親父を思い出した…いつも大人しいくせに酒飲むと暴力に走ってよ…別人みたいだった…そんでさっきお前を突き飛ばして気づいた、自分も親父と同じクソ野郎に成り果ててる事にな…」
「じゃあ…恐い方は倒しちゃえよ…俺は優しい宗斗が本当の宗斗だと思う」
「ハハッ、そりゃいいな」
「自覚できたなら、やり直せると思うぜ…お前もな」
「玲司、俺の負けだ…沙希はお前にやるよ…他の野郎に取られるんじゃねえぞ、しっかりケツ押さえとけ」
(他の不良に連ませるなって意味か?)
意味の食い違いはあるが、宗斗に言われて頷く玲司。
「それから沙希…」
「何…っあ!」
パン、といきなり頬を叩かれると、沙希はすぐ混乱した。熱い頬を押さえて過呼吸になりかける。
「お前は、それを治さねえと…いつまでもママの執着から抜け出せねぇぞ… いっぺん虫に刺された顔でもママに見せつけてやれ…傷ひとつ無い綺麗な顔しか価値ねえみたいに言うなってな」
「……っ」
「…じゃあな」
「ありがと…宗斗」
小さく呟かれた言葉に一度だけ立ち止まって、沙希を振り向き優しく笑う宗斗。
「頑張れよ」
自分を守る為に自ら生み出したもう1人の人格がコントロールできない。自分とは違う自分に体を乗っ取られていくような感覚。それは突発的に大切な人までも傷つける。宗斗は時に、自分で抑えきれないもう1人の自分が怖かった。心のどこかで、自分から沙希を引き離してくれる誰かを待っていたのかも知れない。沙希を手放してやれた事は、宗斗にとっても喜ばしい事だった。
「…沙希、大丈夫か」
「平気…ちょっとジーンてするけど、手加減してくれたっぽい」
「そうか、俺は…悪いけど少し、座らせてもらうぜ」
「え…なに?!大丈夫?!」
宗斗が出て行くと、ベッドに腰掛けてぐったりと項垂れる玲司。驚いて手前に屈む沙希は漸く玲司の額や首元を流れる汗に気付く。
「梶本が近道教えてくれたおかげで、何とか間に合ったけどよ…駐車場が遠過ぎなんだよ…ハイキングして来る余裕なんかねぇってのに」
「…これ、走ったから?」
「お前な…のんびり歩いて来たと思うか?着いてからずっと足つってるしよ」
「…ありがと、来てくれて」
「ああ、無事で何よりだ…これでアスも、話くらい聞いてくれるだろ」
玲司の回復を待つ間、沙希はアタッシュケースの現金を改めて見る。
「どうやったら、こんな短時間に…」
「正直、間に合わないと思ったぜ…捨て身で行くしかねえってアス達と揉めてた時に、意外な奴が残りの足りない分…全部貸してくれたんだよ」
「ヴァルトの住人…?」
「ああ……花結だ」
「花結って…あのカモにされてた奴だよな?…俺のこと、恨んでる筈じゃ」
移動時間を計算すると残り時間はもう無い。そんな時、宣言通り立ちはだかって止めるアストと捨て身でも行くと言う玲司は口論になりlibertàの裏口を出た。言い争いながら店から出てきた2人は、周りへの視界が狭まりコンビニ帰りで通りかかった花結にぶつかってしまう。
『ひえ!な、なな何事ですかぁ!』
『花結(さん)!?』
玲司とアストが周りが見えなくなるほど言い合う事は普段ならあり得ない。花結はすぐに沙希に関わる事だと勘付いたらしく、もじもじと尋ねてきた。花結も、沙希の仲間には嫌な思いをさせられてきた中の1人だ。しかしアストの説明を聞くと、即答する。
『お金で救出できるなら…するですよ』
『え?!』
『命が、最優先です…自分は、それをよく知ってます』
何度か不良に囲まれ、逃げきれなかったことがあるのだろう。それでも迷わず沙希を助けようとする花結に言い争っていた2人は冷静さを取り戻した。
『命…ですか』
『大袈裟と思わないで欲しいです…千代田氏』
花結は着ていた薄手の白いサマーパーカーを捲り、腹部を見せる。青白い肌に残るいくつもの根性焼。つまり煙草を押し付けられた痕だ。命を奪われる、当時の花結はそう思って助けを求めていたのだろう。
『誰がこんな事を!沙希の仲間ですか!』
『それより、ずっと前です…学生の頃…お金が無かったので、やられました』
そう言ってすぐに服を下ろして隠すように腹を手で押さえる花結。
『沙希は、あなたに酷い事をした側の人間ですよ…良いんですか』
『…あ、はい…』
花結が、玲司をチラッと見る。
『花結…』
『自分は基本スマホ決済で現金は普段、必要な分しか持ち歩きません…でも、どうしても現金が必要な聖地があるので…常に資金が部屋に置いてあります…それを貸します』
『『聖地?』』
揃って疑問符を浮かべる玲司とアスト。花結は珍しくパッと表情を変えて嬉しそうに笑った。
『ゲームセンターです』
『『ゲームセンター?!』』
多くのゲームセンターは硬貨を投入して遊べるアミューズメント施設だ。その為に多額の現金を常に用意してあるという花結。アストから部屋に金庫がある事を無闇に口外しないよう強く言いつけられながら不足分の金を用意してくれた。
『これで、伊吹氏を…助けてあげてください…他の事は何とでもなります』
『花結さんにまで協力してもらって、間に合わなかったら許しませんよ…でも安全運転は守って行って来てください!』
「…俺は、助けてやれなかったのに、アイツ強すぎ」
「沙希…帰ったら、今度は自分で返せよ?」
避けられているからと買い戻したフィギュアは玲司に頼んで花結に返した過去。次こそは自分の手で金を返しに行く、そう決意したように沙希は頷いた。沙希の頬を流れる涙を玲司が指で拭う。
「…これで追い出されたら笑うけど」
「ああ、アスは宗斗より手強いかも知れねえぞ…やっと足が落ち着いて来た、帰るか」
「うん…!」
沙希は緊張が切れた途端余程疲れていたのか車を走らせて数分で眠ってしまった。助手席を少し後ろに倒して気持ちよさそうに寝息を立てている。
「……ん?」
沙希を起こさないよう音楽やラジオは付けずに車を走らせていた玲司は、行きには無かった事故の規制線にスピードを落とす。緊急車両が続けて到着している為、起きたばかりの事故のようだ。山道の下り、片側1車線でほぼ直線。横を通り過ぎるとセンターラインを蛇行し対向車線を超えて崖下に続くタイヤ痕が見えた。崖の下からだろうか、特徴的な音の伸びるクラクションが鳴りっぱなしになって窓を閉めても聴こえてくる。
『急いで飛ばして事故でも起こしたら崖に真っ逆さま…まず助からん』
(梶本が言ってたな…この直線で蛇行…居眠りか、それとも酒でも飲んでたのか?)
「……ん、ぇ?」
先程のクラクションのせいか沙希が薄く目を開けて自分が居る場所を確認するように左右を見ている。
「どうした…俺の車の中だ」
運転席の玲司を確認すると安心したように再び目を閉じる沙希。
「ごめん、なんか…今、宗斗の車のクラクションが聴こえた気がして……夢、見てたっぽい」
「…ああ、着いたら起こしてやるから…寝てていいぜ」
「…うん」
もうクラクションは聴こえない。静かな車内に揺られて眠気に勝てない沙希は再び寝息を立て始めた。あの事故が、宗斗の車だという確証は無い。特徴的とは言え同じクラクションの車は他にもあるだろう。それでも…。
(起きてるのは、俺だけでいい…)
沙希には現実と夢をすり替えた。玲司はその夢を守るように安全運転で家まで送り届ける。
深夜。
HeimWaldに戻ってきた2人を駐車場でひとり待っていた勇大。いつもの強面が2人の無事を確認すると和らいだように見える。
「ん…?梶本…お前、まさか待ってたのか」
「代表してな…他の住人らもさっきまで心配して居たが、時間も遅いんで帰らせた…俺はいつも、帰りはこの時間だ…どうって事はない」
「心配かけたな、梶本が教えてくれた近道のお陰で間に合ったようなもんだ」
「役に立ったなら、良かったが…」
勇大の視線が沙希に向かう。駐車場の電灯だけで照らされる勇大はより一層厳つい。睨まれれば誰でも恐縮するだろう。
「……迷惑、かけてごめん」
「ふん、こっちも無事だな」
「そんなに脅かすな」
「別に脅かしてるつもりはねぇ…この目つきは元々だ」
そう言って勇大は手に持っていたlibertàのテイクアウト用の袋を玲司に手渡す。
「美味そうな匂いさせてるなとは思ってたけど、これ…賄いか?」
「ああ、余りもんだ…あの状況じゃ何も食ってないだろ…朝に回しても味は落ちない、好きにしろ」
「最高かよ、夜食に感動したのは受験の時以来だぜ…ありがとな、梶本…それとこれも」
梶本に借りていた両替用の予備金。それを返す。
「きっちりカタ付けてきたんだろうな」
「ああ、大丈夫だ」
「…なら、いいが」
頷いて部屋に戻ろうとした勇大とすれ違う際に、沙希は強ばる口を開いた。
「あ…ありがと…出したくなかったよな…俺の為に金なんて」
その言葉に勇大が立ち止まる。
「…誰だろうと、危機迫っているなら事情は別だ」
「…う」
「だが…あんたが詫びも礼も言える人間だったのは、意外だな」
勇大の声音に嫌味はない。一度立ち止まった足を進めて部屋に戻って行く勇大に続いて2人も駐車場を出た。
「…沙希、お前も腹減ってるだろ」
「減りすぎて、減ってるのか分かんない…部屋に何かあると良いけど…無かったらコンビニ行く」
「コンビニ?おいおい、梶本の差し入れは無視かよ」
「それは玲司のだろ」
「お前の分も入ってるぜ…ほら」
「え…」
勇大から受け取った袋には2つ、持ち帰り用の容器に入った賄いが重ねてある。
「一緒に食おうぜ、ひとり飯は未だに苦手なんだよ」
「…どこで」
「俺の部屋来いよ…ついでに泊まってもいいしな」
「い、行く!」
嬉しそうに笑う沙希。よほど空腹だったのか率先して前を歩く姿に玲司も安堵の笑みを浮かべた。
その夜、沙希は不思議な夢を見た。見覚えがあるような、無いような少年が知らない家の玄関に向かって叫んでいる。
『どこ行くんだよ!何時に帰ってくる?!』
玄関以外はぼんやり霞んで光に覆われた空間。いつまでも玄関を見つめて出て行った誰かを待ち続ける少年に伸ばした手はその体を擦り抜けた。夢の中でこれは、夢だと認識する。声は出ない。
やがて光が強くなって、玄関が開く音がする。
『兄ちゃーん』
玄関の外は何処までも続く光の世界。その先でぶんぶんと大きく手を振る男児。その横には母親らしき女性。
『…随分、遅かったじゃねぇか…おかえり』
駆け出して男児を抱きしめた少年の背中は、いつの間にか大人に成長していた。
(……宗、斗?)
その背中は眩しくてもう見えない。目が眩んで、夢が終わった。そして朝、目覚めた時には夢の記憶は薄れて沙希の中では「不思議な夢を見たような気がする」程度のものへと変わっていたのだった。
最後の関門。沙希をHeimWaldから追い出す為の多数決が取られる日。
「逃げずに来ましたか、宜しい」
まるで決闘のような文句で出迎えるアスト。しかし場所はlibertà。決闘の雰囲気とは程遠い。寧ろ広いテーブル席に都合のついた住人達が座って、傍目には友人達のディナータイム中に見えるだろう。
「アス、いきなり噛みつくなよ…」
玲司の隣で恐縮する沙希はまだ顔を上げることが出来ない。
「さて人も集まったので皆さんのご意見を聞きたいと思います、2-C号室の沙希が繰り返す迷惑行為は黙認できる域を超えています!ヴァルトの平穏のためにも早急に出て行ってもらいたい…善は仕事なので来れませんが、僕に合わせるという回答はもらっています」
「そりゃあ善は、2-C号室が空けばアストの隣部屋を確保出来る訳だからねぇ」
「あはは…確かに彼なら2部屋借りそうですね」
「俺、挟まれたくないんだけどね」
「ふふふっ、確かにそれだと透流くんの両隣が善くんになっちゃいますね」
聞こえてきたのは透流と朔未の緊張感を和らげてくれる会話。
「う、それはそれで迷惑ですね…1-D号室の方は相変わらず意思疎通が取れません、律紀さんは沙希の事をよく知らないから、という理由で不参加です…ただ夜中の騒音に関しては迷惑だからやめさせて、と」
「それに関しては昨日、片付けた…あいつらが沙希と関わる事はもうねぇよ」
「関係が切れたからと言って過去は消せません…1-B号室が空室なのは彼らの嫌がらせのせいだという事を忘れないでください…玲司、あなた1番仲良かったじゃないですか」
「…そうだな」
「え…」
1-B号室は、玲司の部屋の隣だ。交流があるのは自然。しかし友好度は知らなかった。沙希は驚いて顔を上げる。そして隣に座る玲司を不安そうに見た。
「あいつの事も止められるなら、止めてたぜ…何も言わずにいきなり出て行きやがって」
「それだけ我慢の限界だったんですよ」
「出て行った奴の事は今更どうしようもねえだろ…それに、あれは沙希の元仲間がやった事だ、沙希だけが悪い訳じゃねえ」
「それは沙希も悪かったと認めるんですね」
「連んでた沙希にも非はあった、だからこれからは…」
「これから?あなたはどうしても沙希をヴァルトに残したいようですね」
「その為に連れ戻したんだ、当然だろ」
「その前に僕や朔未さんが受けた乱暴を無かった事にはさせませんよ」
「だから、それは俺のやり方が悪かったせいだって言っただろ」
「まあまあ、2人とも…落ち着きなさいな」
ハーブティーを飲みながら半分は他人事の透流。朔未は困ったように笑う。
「アストくん…当事者ですから、まず沙希くんの話を聞きませんか」
「そうですね、貴方はどうなんです?ヴァルトに残りたいんですか」
朔未には素直に従うアスト。話を振られて沙希は膝の上で拳を握った。
「許して…もらえるなら」
「許すには、条件がありますよ…貴方に出来るか怪しいものですが」
「条件…?」
「安心してください、僕はダイスで決めたりしません…まずは律紀さんの要望です、騒音その他ヴァルトに迷惑行為を行わない事」
「それは大丈夫…もう、あいつらとは会わないから」
「次に、自堕落な生活態度を改める事…とりあえず仕事を決めてください」
「それは…一応」
「俺の連れに紹介して、雇ってもらう話になってる」
「む…それは作り話じゃなかったんですね」
「なんで作る必要があるんだよ…職場はビズだ、送迎は俺がする」
「ふむ…それならサボりようがありませんね」
「梶本に、手を出すなら責任持てって釘刺されてるしな」
厨房を見る玲司。普段は顔を見せない勇大が珍しく厨房とフロアの出入り口で腕組みをして様子を伺っている。玲司と目が合うと小さく溜息を吐いたようだ。
「ええ、梶本さんは沙希を残すなら玲司がお目付役をしろと言っていました…適任だろうと」
「それは梶本さん的には残ってもいい、と言う事でしょうか」
朔未とも目が合うと勇大はついに厨房へと戻ってしまった。
「中立というのが正しいでしょうね、話し合いは任せるというスタンスでしょう」
「おやまあ、彼も短期間で随分と軟化したねえ…最近までアストと同じくらい追い出したい感じだったと記憶してるけど」
「梶本さんはヴァルトの事をとても気に掛けてくれていますから…これ以上の問題さえ起こさなければ残ってもいい、と考えているのではないでしょうか」
「ご指名なら、お目付役とやらも俺がやる…もうそれで、生活態度の事はいいだろ」
「分かりました、その代わり次に沙希が何か問題を起こした時は貴方も同罪ですからね」
沙希がテーブルの下で玲司の服を引っ張る。
「そ、そんな事まで約束しなくていいって…」
小声で訴える沙希。すると服を引っ張っていた手を優しく外された。
「分かった…次なんかねぇけどな」
「!」
「では、次の条件です…今までの迷惑行為に対して謝罪をしてください」
「あ…う、うん」
一同に注目されて沙希は顔色を無くす。ただ見た目の良さが引きつける無関係の客の目まで気になってしまう。頭の中が真っ白だ。
「どうしました?」
自分に向く目から逃れるように視線を彷徨わせた沙希は、ただ1人だけテーブルの中で自分を見ていない人物を見つけて、そこに視線を落ち着けた。他の住人達がドリンクや軽食しか頼んでいない中、1人だけ大盛りのライスと500gのハンバーグセットを黙々と食べている花結。お前細いのに食べる量多すぎ、と頭の中で突っ込むと真っ白だった思考が融解されて戻ってきた。
「俺、ホントは分かってたんだよね…一緒に居るのは楽しいけど、あいつらがやってる事は悪い事だって…でも、止めたらハブられる…居場所が無くなるって思って…結局、見てることしか出来なかった…迷惑かけてごめん…傷つけて、馬鹿みたいな方法で許してもらおうとして…ごめん…そんな事ばっかしてきて見捨てられても仕方ないのに、俺がヤバい時に助けてくれたとか…マジで嬉しかった…俺さ、ちゃんとやり直すから…1回だけ、チャンスもらえない、かな…」
視線を察知して花結が、フォークを止めて沙希を見た。少しだけ目を見開いて驚いているようだ。
「レアルートエンディングへのイベント発生です…」
「「…ん?」」
やっと喋った花結の一言に一同が頭上に疑問符を浮かべる。
「ま、まあいいでしょう…素直に謝罪できる点は評価できます」
「それじゃあ」
「まだ、朔未さんや透流、花結さんの意見を聞いていません」
名指しされて朔未と透流は顔を見合わせた。
「俺も、迷惑行為さえなければ…それに玲司くんが沙希くんの新しいお友達なら安心ですし」
「そだねぇ、俺も余計な買い物しなくて済めば構わないよ」
「透流くん、彼らから何を買ったんですか?」
「喧嘩とか?」
「もう…喧嘩はダメですよ!」
「あっれー?主にサクミンを助ける為だったと思うんだけどね」
「あ、そうでした」
「花結さんは…」
「自分は残ってもらって良いです…伊吹氏が呼び込まなくても、別の不良から絡まれるのは変わらないですし」
自嘲気味に笑う花結。
「それは別問題ですね、分かりました!可能な限り僕がお供します」
「へ?」
「ゲームセンターです、僕はあまり行った事がありませんが…不良共に絡まれるのはそういった場所が多いのでしょう?」
「…千代田氏」
「それに興味があります…花結さんの言う聖地という場所に」
「ふ…ふふふ、では今度…案内するです…千代田氏は負けず嫌いなのでムキになって、散財しないように気をつけて下さい」
「僕が?あり得ませんね」
「ふふっ、こちらでも新しいお友達が出来たみたいですね…俺も仲間に入れてください」
「さ、朔未さん…勿論です、いつでも何処へでも僕がお供します!」
「おいアス…沙希の事どうなんだよ、ヴァルトに残ってもいいんだな?」
最終確認。アストは朔未との会話を中断されて少し不服そうに玲司を睨み付ける。
「多数決ですから、仕方ないでしょう…玲司、沙希から目を離さないでくださいよ!」
「良かったな、沙希」
目を離すなと言われて沙希を振り向く玲司。
「…うん、ありがと…お前の事…ちょっとだけ、嫌いじゃなくなったかも」
「今回ばかりは好きって言っとけよ…可愛げねえな、まあいいけどよ」
「じゃあ…好き…って言われるように、俺のことちゃんと面倒見ろよな」
「何で上から命令してくるんだよ!」
「そういう約束だしー…あ、玲司!ヴァルト残れるお祝いに何か奢って」
「ああ?!」
先程の神妙な面持ちはどこへやら。けろっとしてメニューを開き出す沙希に呆れる玲司。2人のやり取りに他の住人達も声を上げて笑った。
「そうですね、ここは玲司に奢ってもらいましょう…沙希の迷惑料です」
「おい、なに勝手に決め…って言うか何で沙希の迷惑料が俺に回ってくるんだよ」
「沙希はまだ仕事を始めたばかりなんでしょう?自立も危ういのに絞り取れませんよ…つまり!お目付役の貴方に役目が回るんです」
「玲司くん、コーヒーに合うケーキも頼んでいいですか?」
「朔…お前まで」
「当然です!ここにいる人達はみんな奢ってもらう権利がありますから」
「う…」
「亜南氏、ライスおかわりして良いですか?」
「ははッ…せめて俺はハーブティーだけにしておいてあげようかね」
「僕はパンケーキを追加します、梶本さんのためにもリベルタの売り上げに貢献しましょう」
「……あー、もう好きにしろ!」
やはり、宗斗よりアストの方が手強かった。玲司は観念して自分も何か頼む事にしたのだった。
好き。
荊棘(終)
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