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 レイプ、されたんだ。信じられないけれど。体中に残る痛みが、現実だったと訴えかけてくる。 「う、ううぅ……」  ぬるすぎるシャワーを浴びて、俺は泣いた。感情からこみ上げてくる涙を流すのは、何年ぶりだろう。  男は俺をホテルに置いて去っていった。信じられない言葉と、連絡先を残して。 『あの女の子、見た感じ重傷じゃないよ。脚を骨折したくらいじゃない? もしかしたら捻挫くらいかもね。まあ俺にとっては君を逃がさない口実ができてラッキーって感じ?』 『あ、でも君のしたことが罪にならないわけではないし、君が俺から逃げられないのは事実だから』  そう言って突き付けられた、俺のものではない液晶画面。最中はほとんど目を瞑っていたので、全く気付かなかった。そこには男に組み敷かれて体を暴かれ泣きじゃくる、情けない俺の姿があった。  またね、という不吉な言葉に拒絶を示すことはできなかった。  今も、思い出せば背筋が震える。あの恐怖。あの痛み。  どうやって自宅に帰ってきたのかは覚えていない。脱衣所でしっかり服を脱いだ記憶はあるので、まともな恰好で帰って来られたことだけは確かだ、と思いたい。  膝の力が抜けて冷たいタイルに座り込めば、開かれたそこから、タラリと何かがあふれ出した。それがあの男の精液だと分かったとき、俺はいよいよ吐き気を抑えられなかった。 「う、げえ……ッ」  排水溝に向かって、全てをぶちまける。吐瀉物も、男の精液も、涙も、全てぬるま湯と一緒に飲み込まれていった。 「う、うう……ッ」  全部、全部、全部。こうやって流れて、なくなればいいのに。全てなかったことにできたらよかったのに。俺の体は、覚えてしまった。あの絶対的な恐怖と、――快感を。 「ううぅ……」  認めたくなかった。暴力でもって侵されたその場所で、絶頂に達した自分を。 「うあああああっ!」  やり場のない感情を叩きつけるように、風呂場の鏡に右手をたたきつけた。パン、と間抜けな音がして、鏡にヒビが入る。蜘蛛の巣を思わせるようなそのヒビがひどく不愉快で、滅茶苦茶になるまで何度も、何度も、拳をたたきつけた。  右手の甲がズタズタになっても、血まみれになっても、止めることができなかった。  こんなときでも誰も助けてくれないなんてことは、分かりきったことだった。  夢を見ていた。  高校一年生の夏。なかば強制的に入れられた「普通」の高校に、さっそく馴染めずにいた頃。朝、何も困ったことはないとでもいうような明るい顔で登校していく同級生たちがどうしても疎ましく、いつも少し遅れて登校していた。  その日も、学校の前に着いたときには一時間目が終わろうかという頃だった。ひどく暑い日で、このまま帰ってしまいたいという衝動すら感じながら歩いていたとき。校門の前で嫌なものを見た。  焼けたアスファルトの上で干からびようとしている猫の死骸だった。車にでも轢かれたのか、真っ白な毛のところどころが薄い赤に染まっている。  そいつは校門の目の前、ど真ん中で往生していた。俺は正直、この類のものが苦手だった。動物は嫌いじゃない。だからこそ、この哀れな猫に憐憫を感じてしまう。  前を歩く大学生たちが可哀想、やら、轢いた人ひどいねぇ、なんて嘯きながら行ってしまう。そう思うならば、道の端に寄せてやるとか、色々あるだろうに。  そうは思っても、いざ自分もそれを前にすると、なかなか手が出ない。道の端に避けてやりたいとか、できればどこかに埋めてやりたいとかと思うのだが、それは口で言うほど容易なことではなかった。既に生命の途切れた物体というのは、それだけで触れるのを躊躇わせる。病気を持っているかもしれないとか、衛生的ではないとか言い訳を並べながら、いつも通り過ぎてしまう。本当はただ怖いだけだ。  みんなきっとそうなのだろう。可哀想にとは思っても、きっと誰かがどうにかしてくれるだろうと。自分は関わりたくないと目を逸らして通り過ぎるのだ。そんな猫を見ると、まるで自分のようで惨めになる。誰からも遠巻きにされて。関わりたくないと目を逸らされ。道の真ん中にいるのにずっと放っておかれて、朽ちていく――。  近寄りたくはないが、そこを通らなくては校門に入れない。どうしたものか、と立ちすくんでいると、その校門の中から突然若い教師が現れた。俺のクラスの古典の担当教師だった。  そいつはワイシャツの袖をまくりあげると、なんの躊躇いもなく、猫を両手で持ち上げた。あ、と俺が小さく声をあげると、ちらりとこっちに視線を寄越す。 「何? お前の猫?」 「……違う」 「そう。ならいいや」  猫は教師の手の中でぐんにゃりとしていた。正直その柔らかさはひどく不気味で、見ているだけで吐き気がした。だが教師は全く意に介した様子もなく、可哀想になぁ、と無表情に言うと、猫を校門の脇の日陰に入れてその手でポケットからスマートフォンを取り出した。なにやら軽く操作したあと、おもむろに電話をかけ始める。 「あ、もしもし。こちらで道路上の動物の死骸を回収していただけると聞いたのですが」  よどみなく話す。そのときまで俺は、動物の死骸を回収してくれる業者があることすら知らなかった。しかしそれ以上に、こんなにも躊躇いなく行動を起こす人間がいるのだということに驚いていた。気持ち悪くないのかとか。手を洗わなくて大丈夫かとか、色々考えていたが、何よりも、この教師の行動に、――らしくなく、感動していたのだ。  教師は電話を切ると、もう一度「可哀想になぁ」と言って、既に事切れている猫の額を数回撫でた。そして俺のほうを振り返ると、 「あ、名前思い出した。一年四組の鷹羽慎也。おまえ、遅刻だぞ。早く学校入れー」  なんてごく普通のことを言った。それが香坂だった。  そのときから、なんとなく香坂のことが気になり始めた。教師らしくない教師。大人らしくない大人。他の奴らが恐れてやらないようなことを、何の躊躇いもなくやってのける人。この人ならば、あの猫のように。周囲から遠巻きにされている自分にも歩み寄ってくれるのではないかと、そう、勝手な期待をしたのだった。  目が覚めて最初に感じたのは右手の鈍い痛みだった。  布団にくるまったままスマートフォンの電源を入れる。着信五件。全て学校の電話番号からだった。以前一週間連続で無断欠席したときに、次からは電話しろと担任が勝手に登録した番号だ。  いつの間に眠っていたのだろう。インターホンが鳴っていた。目覚めた原因はこれらしい。面倒くさい。どうせ新聞屋とかそんなんだ。俺は頭からガバリと布団を被った。  インターホンが止む。もう一回寝なおすかと思った瞬間、スマートフォンがブルブルと震えた。携帯電話の知らない番号。気味が悪い、出ないでおこう。やがて電話は留守電に切り替わる。声が、した。 『あー、鷹羽? センセイだけど。今お前んち行ったんだけど、留守なのな。明日ちゃんと顔見せに来』 「香坂っ?」 俺は思わず通話ボタンを押していた。 『あ? 鷹羽?』 「……ああ」 『なんだお前、最初っから出ろよ。まあいいや、今どこ?』 「え、その、家」 『居留守かよ、おいっ』 「今開けるっ」  跳ね起きてベッドから飛び降りた。布団が足首に絡み付いて転びそうになる。膝が笑っていた。何のせいかは考えたくない。おぼつかない足取りで階段を降りて、震える手で鍵を開けた。勢いよくドアを開ければ、目の前に立っていた男が慌てて一歩後ろに下がる。 「よ。サボり野郎」 「香坂……」  いつも通り。間延びした声。跳ねた髪。眼鏡の奥の優しい目。何もかもいつも通りだ。優しい先生。大好きな先生。なのにその姿に、――『大人の男』の姿に、あの暴力的な記憶が重なる。  罵倒。せせら笑い。俺を殴る手。他人を物のように扱うことに全くの躊躇をしない、恐ろしい男。目眩がひどくて、倒れてしまいそうだった。ドアに寄りかかることでなんとか体を支える。 「……なに」  そっぽを向いて絞り出した声は、常のように振舞おうとしたのが失敗して、ひどくかすれていた。 「何じゃねーよ、おっまえ今日金曜なんですけど」 「学校休むのなんて今更じゃん。そんだけで家来るの」 「電話しても出ねーからだよ。もしかして家でぶっ倒れでもしてんのかと思っ……」  ため息交じりにぼそぼそしゃべっていた言葉が不自然に途切れる。どうしたのかと顔を上げれば、香坂の視線はドアノブを握った俺の両手に注がれていた。 「何それ」  無駄とは思いつつ、さっと両手を背後に隠す。目が、合わせられない。右手は数えきれないほどの切り傷でずたずたになっている。手当なんてできないから適当に絆創膏をベタベタ貼っただけだが、まだかなり血がにじんでいるし、何より数が半端ではない。明らかに尋常な怪我ではないのは誰が見ても一目でわかる。迂闊だった。 「……なんでもない」 「なくねーよ」 「っ!」  強引に右腕を掴まれて、体が大袈裟に跳ねる。痛みのせいではない。背筋を嫌な汗が流れた。引きずりだされた右手をまじまじと見られる。その次に、明るいところで見ればはっきりと分かる左頬の腫れも。  香坂の判断は早かった。半開きのドアにもたれかかっていた俺を無理矢理玄関から引きずり出すと、「病院行くぞ」と言って、門の前に停めてあった軽自動車に押し込んだ。  部屋着のままだとか、玄関に鍵をかけていないだとか、言いたいことは色々あった。だがそれらを気にする思いよりも、もうどうにでもなれ、という自暴自棄のほうがつよかった。  車内はほんのりと煙草の匂いがした。  待合室で薬を待つ間、香坂は外に出てどこかに電話をかけていた。恐らく学校だろう。待合室の時計を見れば時刻は午前十一時を回ったところだ。授業は大丈夫なのだろうか。  頭がぼうっとしてあまり色々のことを考えられない。自分では気づかなかったが熱があるようだった。怪我のせいと思っておいた。  右手は縫いこそしなかったが、医療用テープというのでがっちりと固められた上に包帯をしっかりと巻かれていて、丸一日はほどくなということだった。不便だ。医者に怪我の理由を聞かれたが、何も言わず黙っていた。処置室まで付き添ってきた香坂も何も聞かなかった。  薬を受け取り、電話を終えて戻ってきた香坂に連れられ再び車の助手席に乗る。会計はどうしたのだろう。財布を家に置いてきてしまったので当然現金も、そういえば保険証すら持っていない。確認しておくべきかと運転席を見れば、思いのほか近くに香坂の顔があって、思わずギクリと距離をとってしまった。今までに見たことがない、真剣な顔だった。縁なし眼鏡の奥の瞳は、まっすぐにこっちを見ている。  何、と言いかけたところで「あのさあ」という低い声に遮られた。 「俺一応おまえの担任だから、中学校からの引継ぎとかもあるし。いろいろ、おまえの家の事情とかも分かってるわけ」  さ、と頭から熱が引く。  香坂は無意識でシャツの胸ポケットに手を伸ばし、気づいたようにそれをひっこめた。煙草を探していたのだろうか。その一連の仕草に、そしていつもチョークを握る指が存外に細くて綺麗なことに視線を奪われながら、必死で無難な言葉を探る。ようやく絞り出した声は、自分でも笑ってしまいそうなほど震えていた。 「……どこまで、知ってんの」 「言ってもいいのか」  黙ってうなずく。香坂はハンドルに両手をついて、小さく息をはいた。そういえばエンジンすらかかっていないことに、今更気づいた。 「中学二年生のときに両親が離婚して、お母さんが出て行ったってこと。お父さんは都内に単身赴任してて、おまえはあの家に一人っきりってこと。お父さんとうまくいってなくて、家庭内暴力があった、ってこと」  なんだ、ほとんどじゃないか。でも、俺の家がそういう風に歪んでしまったそもそもの「原因」は、きっと知らないのだろう。外聞と常識を異常に気にするあの親たちが誰かに言ったとも思えない。知っていてほしいけど。と、一瞬思ってしまったのは気の迷いだ。  自嘲的な心の内が笑いともとれる吐息になって漏れた。 「だからその怪我にも何となく心当たりあるよ。お前の気持ちもわかる、とまでは言わないけど、想像することはできる。けどさぁ」  す、とごく自然に右側から手が伸びてきて、膝に置いていた俺の手をそっと包む。包帯越しでも伝わってくるその感覚に、鼓動が速くなった。 「今おまえに何て言葉をかけってやったらいいか、っていう肝心なことが分かんねーんだ」  その言葉に、何か大きく熱い塊が胃の底からせりあがってくる感じがした。目の奥が熱い。息が震える。熱があるせいだ、と心の内で自分に言い聞かせた。  香坂は黙って俺の言葉を待っている。俯いていても、眼鏡越しに視線がまっすぐに注がれていることは分かった。  一瞬。何もかもぶちまけてしまいたくなる。  俺は同性愛者です。男が好きです。あんたが好きです。でもかなうはずもないから、誰でもよくて知らない男に抱かれました。本当は嫌だった。怖かった。殴られたのは痛かったし怖かった。  ここで全てを話して、そしてそれを香坂が受け止めてくれたら。そうなんだ、つらかったな、と頭を撫でてくれたなら。それはなんて、幸せなことなのだろう。  でも、俺は、女の子を。  ――許される、わけがない。 「……別に」  怪我をしていない左手を、ギ、と間接がきしむほど強く握りしめた。そうしていないと、必死に堰き止めた何かが溢れ出てきそうだった。 「もう高校生だし。親父が金は送ってくるから生活はできてるし。この手は風呂で滑ってこけたときに鏡を割っちまっただけだし」  あんたに心配してもらえる人間ではないから。  沈黙は長かった。腹の底で形のないどろどろとしたものがわだかまっているような奇妙な感覚を覚え、吐き気すら催したとき、香坂がふうっと深い息を吐いた。 「そうか。まあ、何か話したいことがあったら言えよ」  そんないかにも「教師らしい」言葉、香坂の口からは聞きたくはなかった。  今日はもう学校は良いから土日でゆっくり休めと言って、香坂は俺を家まで送り届けてくれた。一時間以上鍵もかけずにいた我が家だが、特に代わり映えはない。どの部屋もほとんど使われていないのに広さだけが無駄にある。不自然なほど物の少ない家。おかえりを言う人間もいないのだから、ただいまを言う習慣もなくなった。  二階の自分の部屋まで上がるのもだるくて、リビングのソファにぼすりと倒れこんだ。もう何か月もこのソファに座っていなかった気がする。  頭の中はぐちゃぐちゃだった。  香坂。学校。先生。クラス。怪我。風呂場の鏡。軽自動車。煙草の匂い。黒の高級車。笑んだ口許。  宙を舞う、セーラー服。  何も考えたくなかった。体の怠さに任せて目を瞑った。

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