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「鷹羽また痩せた?」  背後からわしっと脇腹を掴まれて変な声が出た。周囲の目が一瞬こちらを向いたが、じろりと睨みつけるとそそくさと視線は散っていった。 「急にさわんな」 「ただでさえガリガリなのにそれ以上痩せてどーすんの? 消えてなくなっちゃうよ?」 「馬鹿か」  一頻り触って満足したのか手はさらりと離れていった。何を考えているか分からないとぼけた顔を睨みつけるが、まるで怯む様子もなく俺の横を通り抜け、自分の席へと戻っていく。  前の席の(つじ)は、この学校で唯一俺に話しかけてくる奴だった。友人は多い。髪を少しだけ染めていて優等生からは程遠いが、特に素行が悪いわけではない。勉強は壊滅的らしいが少なくとも俺よりはできる。  驚くほど、『普通』の奴だ。本当になんでこんな俺に絡んでくるのか分からない。あえて他と変わっているところを挙げるとすれば、顔がそれはそれは童顔で、学ランを着れば中学生にしか見えないというところだ。うちの高校の制服がブレザーで良かったなと心から言いたい。 「だっておまえ今日の飯もそのサンドイッチだけじゃん? 女子かって。俺のカレーパン一個食べる?」  こちらからすれば、俺とたいして違わないくらい小柄なくせに総菜パンばかり四個も五個も食べているほうが信じられない。 「いらねえ。なんでおまえ俺にばっか構うの」 「えー? なんか鷹羽って俺と似てるし」 「似てねえ。おまえみたいにバカっぽくねえ」 「鷹羽俺よりテストの点低いじゃん!」 「うるせえ。数学は勝ってる」  そんな他愛のない話をしながら昼休みは無為に過ぎていく。  左手で持ったパックの豆乳をすすりながら、机の下で右手を開いたり、閉じたり、動かしてみる。かさぶたが擦れてむず痒い。  一週間経った。警察からも、学校からも、――そしてあの男からも、何の音沙汰もない。全てが夢だったのではないかという気さえしてくる。  だが。右手をぐっと強く握る。  少女の背中の生暖かさは、いまだこの手のひらにはっきりと残っている。  今はこの高校が男子校であることが何ともありがたい。女子高生、というものを目にするだけで今は過剰反応をしてしまいそうだった。 「ていうかさあ、鷹羽ってぶっちゃけ童貞?」  男子校ではこんな話題も四六時中飛び交う。いつもなら「なんでお前に答えなきゃなんねーんだ」と笑い飛ばすことができた。だが、俺はふと食事の手を止めて考え込んでしまった。つまり、俺は童貞なのだろうかということについて。  セックスをしたことがある、という点では童貞ではない。だが俺は抱かれた身であって、誰かを抱いたことがない。そういう意味では童貞か? しかし俺は自分が受け身側であることは理解している。となると誰かを抱く機会はこれから恐らく一生ない。ということは一生童貞なのか?  そんなことをぐじゃぐじゃ考えていると、辻がうわあっと妙な声を上げて天井を仰いだ。 「返答に悩むってことは絶対童貞じゃないじゃん! うーわー最悪だよ絶対鷹羽は童貞だと思ってたのに!」 「うるせえな。でけえ声で童貞童貞連呼すんじゃねーよ」  俺のその刺々しい言い方に、少し離れていたところで聞き耳を立てていた奴らがびくりと怯む。動じないのは言われた本人である辻だけだ。 「ねーねーいつ? 誰? 誰とー? ねぇねぇ鷹羽ぁ!」 「うるせえ。うぜえ」  いい加減鬱陶しくなり、辻の座った椅子を蹴り上げようと足を延ばしたときだった。机の端に置いていたスマートフォンの通知ランプが点滅していることに気づく。どうせスパムメッセージか何かだと思いつつ画面を開き、絶句した。 『土曜七時。場所は前回と同じ』  メッセージサービスに入っていたそれだけのメッセージは、俺を一瞬にして凍り付かせるには十分だった。  夢でも気のせいでもなかった。あの日の少女も、男も、すべて現実だった。――逃げられないのだ、と思い知った。  足取りは重たいに決まっていた。これから自分の身に起こるであろうことを思えば当然なのだが、それ以上に、『犯人は現場に戻る』という言葉が脳裏をチラつくせいだった。そのたびに舌打ちをして不安を無理矢理かき消しながら、待ち合わせの書店に向かった。  あの事件以来、例の書店どころか、その最寄り駅にすら近づいていなかった。今も駅を出て書店に向かう道すがら、すれ違う人々がみんな自分を見ているような錯覚に陥っている。  あれは一週間前に少女を突き落とした奴ではないか。卑劣なことをした屑。いつまで逃げられると思っている。そんな幻聴すら聞こえる気がした。  やがてにぎわうショッピングビルの前を通り過ぎれば、その脇に大きな書店が見える。以前と同じ、併設されている三階のカフェで待つように言われていたが、あの階段を上る気にはなれなかった。それどころかドアをくぐることすら恐ろしく、入り口の横にある自販機の脇で待つことにした。  待ち合わせの時間までにはあと十分ある。自販機で冷たいミルクティーの缶を買って、ちびりちびりと飲みながら通りゆく雑踏を眺めた。  近くに繁華街を有するこの界隈は、土曜の夜という遊び歩くのにうってつけの時間は実に多くの人で賑わっている。老若男女。多様な人が俺のすぐ目の前を通り過ぎていった。部活帰りらしいジャージ姿の高校生。周囲に迷惑なほどの大声で騒いで歩く大学生。疲れた顔をしたサラリーマン。何が気に喰わないのかしかめっ面でのしのし歩く禿親父。幸せそうな微笑を浮かべた母子連れ――。  周りはみんな自分より幸福で自分だけが可哀相、などという空想に耽るほど子どもではない。だがそれでも、今ここにいる誰よりも自分が一番惨めだろうと、そんなネガティブな思考が頭を支配する。親にも学校にも疎まれ、社会の屑扱い。同性が好きというどうしようもない袋小路に立たされ、想いを寄せる相手には伝えられるわけもない。挙句の果てに捩じくれた性格を持て余し、無関係の女子高生に怪我を負わせ、そのことで脅されて今はあの男の玩具扱い――。  我ながら冗談のように終わっている人生で、むしろ笑えてくる。空になったミルクティの缶をゴミ箱に投げ入れると、思いのほかガコンと大きな音がした。青い大きなプラスチックの箱にでかでかと書かれた「ゴミ」の字が癪に障り、チッと舌打ちをして道路に向き直る。 「この世の終わりみたいな顔してる」  俯いていた視界に、よく磨かれた革靴が割り入ってくる。顔を上げれば、相変わらずやたらと綺麗な男が立っていた。今日は柔らかい薄茶色の髪はふわふわと好き勝手に遊ばせていて、先日のようなスーツではなく、無地のシャツにカーディガンと、ラフな格好だった。そんな無造作な風体なのにファッション誌のモデルのように様になっているから腹が立つ。 「やあ。時間を守れる子は嫌いじゃないよ」  さ、行こうか、と自然に肩を押されて歩き出す。触れられた肩は凍ってしまいそうに冷えていた。 「前回はゆっくり話す暇もなかったからね」  男、雅が俺を連れていったのは、繁華街の片隅のビル地下にある、小さな店だった。居酒屋というよりは料亭、いや、食事処といったほうが近い。薄暗い店内にカウンター席が六つ、テーブルが三つのこじんまりとした和装の店だった。 「支払いは気にしないでね。腹減ってるでしょ、好きなもの食べていいよ」  綺麗に微笑みながらそんなことをさらりと言ってのける。どこまでも出来た男だと思うと同時に、この男が俺を無理矢理犯して、その手で殴ったのだと思うとゾクリとした。 「別に君の人となりはどうでもいいんだけどさ。まともに話もしてないのはどうなのって思ってさ」  焼き魚をほぐしながら日本酒を一口あおって、雅が言う。手元に視線を落としているので、目元に濃く影が落ちている。薄橙の照明に淡く照らされたその瞼は、やはりはっとするほど美しかった。 「慎也くんって、あー、くんって面倒くさいな、慎也って本名だよね? 名字なんていうの」 「鷹羽……」 「タカバ? 高いに場所?」 「鷹の羽」 「へえ、格好いい名前だね。あ、俺は本郷(本郷)(みやび)っていうの」  本名だったのか、と軽く驚く。名前まで綺麗だなんて、どこまで完璧な男なのだろう。  それから妙に家庭的なメニューばかりの料理をつまみながら、雅は結構な量のグラスをあけていく。なのに全く酔った素振りもなく、何の役にも立たなそうな無難な会話をした。部活はしているのか、学校には歩いて通っているのか、自転車か電車か、制服はブレザーか学ランか。そんなどうでもいいことを退屈そうにするでもなく聞いている雅が、自分のことは実はひとつも語っていないことに気づいた。こんな美しい外見を持つ男が一体どんな職業についているのかとても興味はあったが、あいにくこちらから質問をするなどという勇気は持ち合わせていない。 「というかどこの高校なの?」  そういえばそんな肝心なことも話していなかった。この得体のしれない男に自らの所属を明かすのは不安な気もしたが、下手に嘘をついて万一ばれたときのほうが怖い。腹をくくって高校の名前を告げるが、雅の反応は予想外のものだった。  煮物をつついていた箸をぴたりと止めて、ぽかんとした顔でこちらを見る。そんなに、驚かせるようなことは言っていない。俺の高校は良くも悪くもごく普通の、何の変哲もない私立の男子校だ。特進クラスはそれなりの進学率を誇るが、俺のいる普通科クラスは別に特段優秀でもなく馬鹿というわけでもない。俺はその中ではダントツの馬鹿だけれど。なので、雅のその反応には逆にこちらが驚いてしまった。 「なに……なんか変なこと、言った……?」  恐る恐る聞くと、はっと雅は我を取り戻したようだった。眉尻を下げて困ったように笑い、グラスの半分ほど残っていた日本酒を一気にあおる。 「いや、ちょっと縁のある学校でね。なんでもないよ。……そっかあ、あそこの高校なんだ……」  そのときの雅の表情を何と形容したらよいのか、俺には分からなかった。何か遠いものを見るような、何かに苛立っているような……。そんな顔を一瞬だけ見せたあと、ふ、と柔らかく笑む。 「ってことは男子校だよね。大変じゃない? 男が好きだと。いや、逆に都合が良いのかな?」  急に話の矛先が変わる。あまり楽しい話題ではなかった。 「同級生に好きな子とかいたりする? より取り見取りでしょ」 「いや、年上が好きだから……」 「そうなんだ? じゃあ先生とかに禁断の恋しちゃってたりして」 「っ……してな」 「あ、図星? そっかそっか、年上が好きなんだねー。じゃあハジメテの相手が俺でよかったね」  ざ、と血の気が引いた。急激に蘇る感触。あの、恐怖。押さえつけられ、あざ笑われ、暴力的に体を割り開かれた。自分が自分ではなくなり、内側から別の生き物に食い荒らされるような、あの恐怖。  料理に箸をつけたものの一気に食べる気が失せて、そのまま箸置きに戻す。顔色を変えた俺を見て、雅は意地悪く笑った。 「思い出しちゃった?」  所在なくテーブルに置いていた俺の手に自分の手を重ねて、雅は妖しく笑む。熱い手だ。あの日、俺を嬲り、殴った手。なのに触れられた手の甲から悪寒がぞわりと全身を駆け抜けた。 「まさか飯を食って終わりだなんて思ってないでしょ?」  ぐ、と手に力が入り、綺麗に整えられた爪の先がわずかに食い込む。声が震えそうになるのを抑えて、なんとか口を開く。唇がカサカサに乾いていた。 「どうして、俺に構うんです、か」 「ん?」 「だって、こんなに格好良くて、きっと金持ちだろうし、俺じゃなくても、いくらでも相手がいそうなのに……」 「ああ、そんなこと」  穏やかな声音で言って、にっこりと笑う。目を細めたその笑顔がぞっとするほど美しかった。 「俺、君みたいに小さくて貧弱な子を泣かせるのが好きなんだよ」 「貧じゃ……」  自覚はあるが、面と向かって、それも悪気なく言われるとほんのりと傷つかなくもない。下唇を噛みながらこっそりと己の薄い胸板を見下ろした。 「それに君なら弱みを握れてるから、多少の無理は聞いてくれそうだしね? ほら、訴えられたりしたらさすがに嫌だし」 「弱、み……」  あまりに軽く発せられるその言葉たちの、内容の酷薄さとの乖離がひどい。思わず相手を見上げた己の瞳に、隠し切れない軽蔑の色が浮かんでやしないかと冷や冷やした。雅は気にした素振りもなく、俺の手をとって立ち上がる。 「で。今から俺にひどいことされるのと、あの写真ネットにばらまかれるのとどっちが良いの?」  到底、逃げられないのだ。手を引かれて歩みだす、前にも後ろにも闇が迫っている気がした。

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