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情けないことに熱を出し、月曜は学校を休んだ。連絡はしなかった。香坂から何度も電話が来たようだったが出る気にはなれなかった。前回の家突撃のときにせめてここに連絡しろ、と教えられていたメールアドレスに「休む」と一言だけメールをした。明日は来い、香坂からの返事はそれだけだった。
ちょうど今週から衣替えで良かったと心底思う。長袖のシャツの上にさらに濃紺のブレザーを羽織っているので、香坂や辻にこの腕の傷を見られることはない。念のためにカーディガンも着ていこうかと思ったがさすがに暑かった。
とはいえ、頬ははっきりと青くなっている。多少傷は引いたものの、殴られた痕だというのは明らかだ。まあ、このくらいは何とかなる。何せ鷹羽慎也=ろくでもない生徒、というイメージは学校ですっかり定着している。その辺で喧嘩でもふっかけたと言えば済むだろう。
薄っぺらいバッグを肩にかけて、先月買ったばかりのスニーカーを履いて、いつものように家を出る。あんなことがあったのにごく普通に学校に行こうとしている自分がなんだかおかしかった。そういえばひどく腹が減っている。途中でコンビニにでも寄るかと思うがそんな余裕はあるだろうか。時刻を確かめるために尻のポケットからスマートフォンを取り出し、画面に走ったそのヒビを見て、思い知る。雅に服を剥ぎ取られて放り投げられたときに、ポケットに入れていたために割れたのものだ。この三日間、いや、あの日からのことは紛れもない現実だ。
いつも通り学校に行って、窓の外をぼんやり見ながら一日を過ごして、辻と他愛ない話をして。そんな風に「普通」に過ごしたって、何もなかった頃には戻れない。学校へ向かう足取りが重たくなった。
昨日の無断欠席について、それからこの顔の痕について、何か言われるだろうとは思っていた。だがまさか昇降口で待ち構えているとは予想外だった。
「おはよう、鷹羽」
「……」
いつも通り、寝癖だらけの髪に、しわくちゃのシャツ。ちゃんと拭いているのか分からない縁なしの野暮な眼鏡。あまりにいつも通りの香坂だった。ならばこちらも「いつも通り」にふるまうべきだった。そう思ってはいても、どうにも顔が引きつる。
うす、と小さい声で言って通り過ぎようとするが、すれ違いざまに腕を掴まれる。ギク、と体がこわ張った。
「何、その顔」
曇った眼鏡の奥から鋭い瞳がまっすぐに見据えてくる。こうやって間近で向かい合うと、香坂がずいぶん背が高いことに気づかされる。不本意ながらあまり長身ではない俺はかなり見上げる形になった。
「何でもねーよ。はなして」
「なんでもなくない。どうした」
昇降口には次々と生徒が登校してきて、香坂に腕を掴まれている俺を見ては遠巻きにする。関わり合いになりたくない、という視線をひしひしと感じた。
「なあ鷹羽。おまえ最近絶対何かあっただろ」
「ねえって。その辺の知らないやつとケンカしただけだし」
「そんなわけない。おまえは投げやりで面倒くさがりだけど、そういうことはしないやつだ」
「何それ俺の何をしってんの」
俺があんたを好きだってことも知らないくせに。
どちらも徐々に語気が荒くなる。左腕の傷が痛む。掴まれたのが右腕でよかったと見当違いなことを考えた。
「いいからちょっと来い、少しだけ話を……」
「何でもねえって言ってんだろっ」
玄関ロビーに俺の大声が響き渡って、静寂が訪れた。今まで声を荒げたことのない俺の突然のキレぶりに香坂が目を丸くしているうちに、腕を振りほどく。
「お望み通り授業にはちゃんと出てやるからさ。放っといてくれよ。うぜえんだよ」
教室に向かって歩き出す。香坂は追ってはこなかった。
「ねえ見てみて鷹羽これー。昨日ゲーセンでとったんだけどさ」
辻が前の席から何か話しかけてくるが、机に伏せったまま顔を上げなかった。あと一時間、英語の授業が終われば昼飯という時間帯。クラスはけだるげながらもざわめきに満ちていて、ひどく耳障りだ。そのざわめきの向こうから、声を殺した会話が聞こえてくる。
「見た見た? 今朝の」
「あー本当迷惑だよなあ。なんでよりによって同じクラスなんだよ」
「もう入試まで時間ないってのに目障りだよな」
「何様のつもりなわけ? 高三にもなって悪ぶってる俺かっこいいとか思ってんのかな」
「てゆかなんでこんな普通の高校にきたわけ。もっと荒れてる高校あるだろ」
「馬鹿声でけーよ聞こえる」
聞こえている。俺のことを言っているのは明らかだ。言わせておけばいい。あんな奴らの戯言なんて気にならない。イライラするのは腹が減っているせいだ。
「でさあ、こっちの小さいほう鷹羽にもあげるね」
辻が無駄に大きな声で言って俺のブレザーのポケットに何かをねじ込んでくる。どうやらあいつらの会話が俺に聞こえないように、気を利かせていたらしい。そんな風に気遣う必要なんてないのに。どちらにも気づかないふりをして、目を閉じた。遠くで始業のチャイムが鳴っていた。
『進路調査票』。そう書かれた紙が異常に重たく感じられる。B6サイズの小さな紙に黒い枠といくつかの選択肢が書かれただけのちっぽけな存在。それが持つ圧迫感は、並ではなかった。
「ほぼ最終決定になるからなー。ちゃんと考えて書けよー」
担任の香坂の言葉すらずくりと腹の奥に重たく溜まる。
――進路、か。俺の進路。俺の進む先。俺の、未来。そこが一体どんな道なのかなんて想像もつかなかった。
「鷹羽―、お前進路どうすんの?」
前の席の辻がぐりっと体ごと振り返ってくる。気づけば担任は教室から出ていくところで、ホームルームはとうに終わったらしい。
「まだあんまり」
「そっかぁ」
「そういうお前はどうなんだよ」
何気なく聞き返したのだが、待ってましたと言わんばかりに辻は大きな目をキランと輝かせる。どうやらこれを話したいための前振りだったらしい。
「国立狙い」
「国立……って、国立大学?」
「おう」
「……」
自信満々に親指をたてる同級生にどう返していいか分からない。うちの高校の進学率は良くもないが悪くもない。半数ほどは国公立大学に進むような話を以前聞いた。だが、辻は俺と並べられるほどの馬鹿だ。勉強しているところもほとんど見たことがないし、こいつが入試レベルの問題を解けるとは思えない。
そんな俺の考えは顔に出ていたらしく、辻はむぅ、と頬を膨らませた。
「分かってんよ言いたいことはよー。俺みたいなバカが大学とかおこまがしいと思ってんだろー」
「おこがましい、だと思うんだけど」
「う、うるせぇ」
俺ですら知っているのに。
「でもさぁ、約束しちまったんだよ。大学いくって」
そう言って窓の外に視線を逃がす。俺の知らないどこか遠くを見据えるその横顔は、見慣れた辻の顔ではなかった。こいつは俺の知らないところを見ている。急に、辻との隔たりを感じた。
誰と約束したのかとか。どこの大学狙うつもりなのかとか。色々と聞きたかったが、声をかけるのが憚られた。そもそもこいつとは友達なんかじゃない。同じクラスでたまたま席が前後でたまたま話すだけ。勘違いなどしない。する権利がない。
ぽつり、ぽつり、と生徒が帰っていく。開けっ放しのドアからは随分冷たくなった空気が入り込んでいた。
「さって。俺ちょっと部活によってくるわ」
三年生は運動部も文化部もとうに引退しているはずだったが、辻がこういう風に言い出すのは何度かあったことだった。本当に「顔を出す」だけらしく、その行動になんの意味があるのかと不思議に思うが、何らかの団体に帰属したことのない俺には到底理解しえないものだろう。
「ほんと部活好きだなお前。引退して何ヶ月経つんだよ」
「後輩たちも喜んでるからいいの! じゃなー」
うるさい男は軽い足取りで廊下に消えていった。さて。たまに連れ立って寄り道をする辻が部活に向かってしまったのでやることはない。帰るかとは思うのだが。
チラリ、と。机の脇に押しやった『進路調査票』が気になる。
一緒に馬鹿なことばかりしている辻が、大学進学なんて確固とした目標を持ってるなんて思いもしなかった。急に、焦りが次から次から沸いてくる。
俺は、どうする。進学? 就職? どちらにしろ、俺の行き先などあるのだろうか。
(……考えたくない)
今は、先のことなど分からない。見えない。俺は考えることを放棄した。机の中に入れたままだったノートを仕舞おうと鞄に手を突っ込んだとき、何か得体の知れないものに手が当たる。
「?」
教科書でもペンケースでもない柔らかい感触に違和感を覚えて取り出せば、それは妙に大きなマスコットのついた自転車の鍵だった。しかし俺は自転車通学ではない。何よりこんな悪趣味なピンクのクマのキーホルダーなんて。と、なれば。
「……辻のか」
そういえば朝何かをゲーセンで取ったと騒いでいた。俺のポケットにも何か突っ込んでいたはずだと思ってブレザーのポケットをさぐれば、案の定、だいぶ小ぶりだが同じピンクのクマが出てきた。どうやらお披露目したり何だりしている間に落としたらしい。鞄のファスナーを開けたまま机の横にかけていたのが災いした。面倒だが、鍵はなくては困るだろう。幸い辻が教室を出ていってまだ数分しか経っていない。後を追うべく、荷物を持って教室を出た。
夕焼けに染まった廊下を歩く。三年生はとうに下校し、一、二年生は部活動に勤しんでいるため校内に人影はない。階段を下って一階へ。一年生の廊下の真ん中あたりを左折すれば、食堂や自販機のあるあたりに出る。そこを今度は右に曲がれば部室棟。部活になんかもちろん縁のない俺にとっては初めて足を踏み入れる場所だ。
廊下は薄暗く、静まり返っている。キシキシと軋む床に気をつけながら、バレー部の部室を探す。ややあって、目的の場所を見つけた。幸いなことに人がいるようで、話し声がもれている。ノックを二回。ぴたりと止んだ話し声に、若干萎縮してしまう。
「はーい?」
中から開けた下級生のほうがもっと可哀想なほどに萎縮してしまった。俺の悪名は他学年にも轟いているらしい。
「あの。辻……辻智紀っている?」
不良と悪名高い三年生の登場にすっかり硬直してしまった可哀想な下級生に、つとめて穏やかな声を出す。中には他に数名の部員がいるらしいが、どいつも無言で青い顔を横に振るだけだった。
「あ? ここに寄るって言ってたけど。来てねぇえの」
「ヒィッすみませんっ」
「いや別に悪くねえけど」
「つ、辻先輩は引退してから一回も部活には来てないっす……」
「え?」
一回も?
今までに辻が「ちょっと部活に顔出してくる」と言ったのを、俺は何度も聞いている。
(……嘘?)
それは結構な衝撃だった。でも、俺に嘘をつく意味が分からない。となれば、口に出すのが憚られるような後ろめたい理由があった、と考えるのが妥当だ。
「そっか。じゃ、それだけだから」
「ウス……」
部室棟を後にして、ふと足を止める。
辻の不審な行動も気になるが、それよりも鍵だ。これがなくてはきっと帰宅できない。スマートフォンを取り出して辻の連絡先を呼び出す。電話。つながらない。仕方なく、SNSでメッセージを入れておいた。しかしこれでは、返事が来ないことにはこちらも帰るに帰れない。
「ったく、手間かけさせやがって」
どこかで時間をつぶすしかないが、一階まで降りてきてしまったので教室のある三階までまた昇るのは億劫だ。せっかく部室棟にいるのだ。絶好のサボリポイントである、今は使われていない水泳部の部室に足を向けた。
元水泳部の部室は先ほどのバレー部の部室からは四部屋分離れており、その四部屋には人の気配はなかった。周囲はしんと静まっている。そのおかげで、ドアを開ける前に先客がいることに気づけた。
この空き部屋に俺が気づいたのは二年の夏だが、それ以降ここで誰かと遭遇したことはない。どこの誰だとドアに耳を寄せる。ぼそぼそと押し殺した話し声がふたつ聞こえてきた。その声のぬしに気づいた瞬間、驚きを隠せず目を見開いた。片方は香坂だった。
もうひとりの声はよく聞こえないが、男子生徒らしい。あまり穏やかな様子ではない声音が低く響いてくるが、何を言っているのかまでは分からなかった。こちらに顔を向けているらしい香坂の声だけが鮮明に聞こえてくる。
「違うって。どうしたら分かってくれんの?」
随分くだけた感じだ。教室でクラスに話すときとも、俺ひとりと話すときとも違う。聞いたことのない声音に腹の奥がギュウっと引きつる。こんな気持ち、捨てるって決めたのに。
「馬鹿なこと言うな」
バン!と、耳を寄せていたドアが揺れて飛び上がらんばかりに驚いた。相手か香坂の体が当たったらしい。その拍子にドアがわずかにずれて、隙間から中が見える。
コンクリートがむき出しの狭い部屋は、容赦なく差し込む西陽で真っ赤に染まっていた。締め切った窓。湿った空気。その中に、彼らはいた。
見るつもりなんてなかった。見たくなんてなかった。
「先生……っ」
ドアが開いたことで相手の声も聞こえる。
辻だった。
辻はドアに押し付けられていた。押し付けているのはもちろん香坂だ。香坂は左腕をドアについて辻の逃げ場をふさぎ、その右手は辻の首にそえられていた。――いや、添えられていたなんてやさしいものではない。締め付けるほどの強さで、その手は辻の喉をわしづかみにしていた。
「だって、今日ほんとに鷹羽のことずっと見てたじゃん。朝だって、わざわざ待ってて……何か特別な感情があるんじゃないかなって、思っちゃうじゃん」
――俺の話?
「そう言われると否定できねえよ」
「やっぱり、っ」
「特別心配な生徒って意味だよ」
「そんな言い方変えたって!」
香坂が、辻に暴力をふるっている? しかも俺の話をしている。
身を硬くした次の瞬間、俺は別の意味で凍りつくことになる。
「せんせ、っ……」
香坂が辻にキスをしたのだ。
辻は一瞬ビクリと体を強張らせたが、拒む様子もない。香坂が角度を変えてより深く唇を合わせると、辻はおずおずとその手を香坂の背中にまわした。
意味が分からなかった。なぜ香坂が辻に口づける? なぜ辻はそれを受け入れる?
俺に比べて少しは背が高いと思っていた辻は、香坂の腕の中にすっぽりとおさまってしまうくらい小さかった。そんなどうでもいいことだけが、頭に浮かんだ。
「……どうしたら信じてくれんの? 教師としてじゃなくて、俺自身が大事だと思っているのはおまえだけだ。……智紀」
どこか苦しげな香坂の声で我に返った。その瞬間俺は音をたてずにひっそりとドアから遠ざかり、震える脚で廊下を引き返していた。
心臓が早鐘のようにドクドクと脈打つ。呼吸が落ち着かない。頭がぐらぐらして、真っ直ぐ歩くのが難しかった。
どうやって学校を出たのか分からない。鍵は辻の靴箱に投げ入れた。
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