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気づけばよく分からない街中を歩いていた。オフィス街というのだろうか。周囲はビルばかりだが、俺が歩いている道の右側は大きな公園が広がっていた。夕焼けは既にその赤さをずいぶん落としていて、夜の入り口が迫ってきている。ぼんやりと歩く俺の横を、会社帰りや学校帰りの人が次々急ぎ足で通り過ぎていく。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
『大事だと思っているのはおまえだけだ』
香坂の声が脳内に蘇る。優しい声だった。しかし苦しそうな声だった。その台詞が、俺に向かって放たれたものだったならどれだけ良かっただろうか。
『智紀』
俺ですら呼んだことのない、辻の下の名前。
……いつから?
いつから彼らは親しかったのだろう。三年になって香坂が俺たちの担任になってから? それとも、もっと前から?
香坂はきっと本気で辻のことを大事に想っているのだろう。あの真剣な声で分かる。他に想っている人がいたのは、仕方ない。つらいことだけど、ありえることだった。
だけどそれが辻であってはいけなかった。俺の数少ない友人であってもならなかったし、何より、男であってはいけなかった。
俺は諦めていた。
香坂が俺なんかを好きになってくれるはずはないと。この思いは報われることはないと。それは、俺の人柄的なものによる部分だって少なからずあったけれど、主には俺の性別と互いのセクシュアリティの観点による諦めだった。
なのに、それが全て崩れていく。
香坂にとって辻が『範囲内』であるなら、俺だってそうだったはずだ。単に、性別的な観点において。
俺だってチャンスがあったんだということを、その権利を失ってから知ったところで、何ができるというのだろうか。それなら知らないほうがよかった。俺は性別という自分ではどうにもできない垣根によってではなく、単に俺という個体の性質によるところにより、香坂に選ばれなかったのだ。
気づいてしまった瞬間、目の前が何も見えなくなっていた。大粒の滴が乾いたアスファルトにぽたぽたと垂れる。立っていられなくなって、歩道の脇にある植え込みに座り込んだ。
いつだったか、接点もないのになぜ俺に絡むのかと辻に聞いたことがある。そのとき辻は眉尻を下げて笑い、こう言っていた。
『俺と似てるところあるからかな』
そのとき俺は、どこが、と鼻で笑った気がする。背が低いところと勉強ができないところか、と言って怒らせたことも覚えている。
ああそうだ。俺たちはとてもよく似ていた。哀れなことに性の対象が同性だった。そして同じ人に惹かれていた。
だがあいつは選ばれた。俺は選ばれなかった。
こんな単純な事実がこんなにも苦しいものだとは知らなかった。知りたくもなかった。右手を強く握りしめる。鏡でついた傷はすっかり治っていて何の痛みもない。左腕の切り傷ももう塞がりかけている。痛みが、新たな痛みがほしかった。
制服のポケットから、力の入らない手で何とかスマートフォンを取り出す。画面にヒビが入り何とも使いづらいそれをのろのろと操作し、メッセージを送った。
内容はこうだ。
『ひどくされたい』
どれだけの時間そこに座っていたのだろう。あたりはすっかり暗闇に沈み、体は冷え切っている。視界によく磨かれた革靴のつま先が現れても、俺はしばらく気づかなかった。
「かぜ引くよ」
何か温かいものが肩からかけられて、のろのろと顔を上げる。ネクタイこそしていないものの、かっちりしたスーツに身を包んだ雅が立っていた。ただでさえ綺麗なオーラを放っているのに、こんな格好をしていればその魅力は何倍にも増す。現に道行く人たちはみな、綺麗に微笑んで立っている雅を横目で見ながら通り過ぎていった。そしてその向かいで座り込む薄汚く貧弱なガキに、なんだこいつは、という一瞥をくれる。
俺自身が聞きたい。俺はなんなんだろう。
「あったかいところ、行こ」
手を引かれて歩き出す。路肩に停めてあった車に乗せられ、これから何をされるのかとぼんやりと期待した。
「アレルギーとか何もない?」
オフィス街の真ん中にある、これでもかと言わんばかりに高級感の溢れるタワーマンションの最上階。通された広いリビングは、異常なほど整頓されている。小さいけれど凝ったデザインのダイニングテーブルに、大きめのソファがふたつ。重厚感のあるガラステーブル、大きなテレビ。そのくらいしか物がない。一続きになっているキッチンには色々と物が並べられていたので生活感がないというわけではないのだが、それでもどこか落ち着かない整然さを与える部屋だった。
雅の家らしきこの部屋に連れて来られた俺に与えられたのは拳でもセックスでもなく、作り立ての温かい食事だった。
筍ごはんと、なめこの味噌汁。焼いたししゃもに、いかと里芋の煮物。長らく食べたことのない家庭料理が次々とダイニングテーブルに並べられていき、俺は目を瞬かせた。最後にきゅうりの浅漬けが入った小鉢が置かれて、向いの席に雅がつく。
「はい、いただきます」
「……どういう、つもり」
「何も。ちょうど自分の分食べるところだったし」
輪切りになったいかを一切れ口に放り込んで、なんでもないふうに言う。浮世離れした容姿の雅と、目の前の素朴な料理がかみ合わない。温かい食事だなんて欲していない。俺はただ、痛みを、苦しみを、与えてほしかった。なのに。
「せっかく用意したんだから食べてよ。もったいないでしょ」
渋々箸をとり、筍ごはんを一口、口に入れる。だしの風味がふわりと口に広がった。そういえば結局今日も昼にサンドイッチを食べたきり何も食べていない。急激に空腹が襲ってきて、次々と箸を進めた。優しくしてほしくて連絡したわけではないのに、どの料理も温かくて、優しい味がした。
「あったかい飯と風呂があれば大抵のことは気にならなくなるってね」
「……何それ」
「俺のじいさんばあさんが言ってた言葉」
「なんだそれ」
雅の口からそんな家庭をにおわす発言が出たことがおかしくて、思わず吹き出していた。く、くと喉の奥で笑っていると、ぽかんとした雅の顔が目に入った。綺麗な形の目を丸くして、珍しいものでも見るような顔をしている。
「……なに?」
「いや、君がまともに笑ったのを初めて見たなって」
言われてみれば、皮肉ではなく笑ったのはいつぶりだったろうか。もう思い出せないほど昔な気がする。雅はふうと浅いため息をつくと、もみじの形をした箸置きに箸を戻す。
「なんかさ、俺はいろんなものを見落としてきたんだなぁって。君を見てるとそんな風に思うよ」
「……?」
話の脈絡が分からず首をかしげる。雅は己の手元に目を落としてふっと笑った。先ほど俺が笑ったのとは違って、静かで、寂しげな笑い方だった。
「最初はさ、いいおもちゃを見つけたなーって思ったんだよね。まあ今でも半分くらいはそうなんだけど」
分かってはいたがひどい言い様だ。とはいえ雅の言動に倫理観というものが見当たらないのは今に始まったことではないので特に驚きはしない。
「俺、君みたいな子すごく好きなんだよね。そそるっていうか。小さくて、貧弱で、なんていうかすごく追い詰められてて弱い、闇を抱えた感じの子」
「闇、って……」
そういう言い方をされるのは心外だった。確かにまっとうな生き方をしてきていないことは否定できないが、精神異常者のように言われるのは些か不愉快だ。
「あの日、女の子を突き落とした君を見て、すぐに分かった」
忘れかけていたあの日の記憶を掘り起こされ、体の奥底に重たいものが溜まっていく。今でも目を閉じれば鮮明に蘇る。白いセーラー服と紺色のスカート。何が起こったか分からず戸惑った声と、動かない体。
忘れかかっていた自分に驚愕する。忘れてなんて、いいはずがない。温かいものを食べたはずなのに、指先が冷たかった。
「この子は歪んだものを内側に隠している。数日連絡がなくても家族からも何もない。自分で自分を傷つけて、悲鳴をあげることすらできないんだろうなって」
そんな風に見られていたのか。そんなに、雅から――外から見た俺は、惨めな存在なのだろうか。
「そういう子に縋られるのが好きなんだよ。可哀相だねー俺が優しくしてあげるよーって。ただ君があんまり嫌がるからついついひどいことをしちゃったけどね。ごめんね加減が分からなくてさ」
殺されかかったのだが、それを「加減が分からない」のひとことで済まされるとは。開いた口がふさがらなかった。だが、もしかしたら。本当に「加減が分からなかった」だけなのだとしたら。
「でも、何ていうかね。放っておけないんだよ、君」
「……何、それ」
「飢えてますって顔してさ。餌をあげたくなるっていうか。手を放したら迷子になってどこかに消えちゃいそうだし」
まともに雅のほうが見られない。何が言いたいのか、分かる気もしたし、分からない気もした。
「まあ手を放すつもりなんてないんだけどね? 今ここを出ていったら君、その辺から飛び降りそうだし」
「そんな、こと」
「しない? しそうな顔してたけど」
「……しない」
さっきまでの俺なら、本当にしたかもしれない。けれど今は、そんな気も削がれていた。ぬるくなってしまった味噌汁をかきこむ。少しだけしょっぱかった。
「気が済むまでいていいよ」
済んだ食器をシンクに下げると、雅がそれらをすぐに食洗器に放り込んでいく。慣れた手つきに、普段からこうして家事をしているのだということが知れる。
「……でも、学校いかなきゃ」
本当は行きたくない。香坂の顔も辻の顔もまともに見られる気はしなかった。でも行かないと、香坂が気にかける。電話をしてくる。もう香坂の特別ではいられないのに。
そんなの、むなしいだけだ。
「そっか。じゃあ今夜は一緒に寝ようね」
そう言って雅は俺の長すぎる前髪をさらりと撫でた。その手つきがあまりにも何かを思い出させて、胸が痛くなった。
そのあとはすぐに風呂に入れられ、本当に同じベッドで寝た。この家は寝室にもおそろしく物がない。真っ白な壁。黒いパイプベッド。クローゼット。それだけだ。ただひたすらに真っ暗な部屋の中で、雅に背後から抱えられる形で横になった。
風呂で雅は俺の右腕の傷を見たはずだが、何も言わなかった。ただ、布団の中で何度かそこを摩った。優しい手つきだった。
寝付くまでに、囁き声で少しだけ他愛のない話をした。
「ねえ、なんで今日スーツ着てたの」
「あのさあ。俺だって仕事くらいしてるんだけど?」
「なんの仕事?」
「うーんそのうち教えるよ」
「じゃあもうひとつ聞いていい?」
「なに?」
「もうひと部屋あるみたいだけど、あっちには何があるの」
「あれは仕事部屋。在宅で仕事してるの」
「株?」
「まあ一山当てるって意味では似てるかな?」
「なんだそれ。あ、あとひとつ」
「欲張りだなあ」
「雅は、男だけが好きなの?」
「男というか男の子が好きだね。小さくて細っこい男の子」
「……しょたこん?」
「ちょっと違うかな? 慎也も男だけだよね、って、寝たか」
うとうととしながら、雅のことを考えた。
散々な仕置きをされて本当におかしなことだと自分でも思うのだが、もしかしたら雅はそんなに悪い人物ではないのかもしれないと思い始めていた。人として大事な部分がものすごく、破壊的に、ネジが吹き飛んでいるだけで。本当に悪気はなく俺を殴ったり縛ったりしていたのかもしれない。単に、俺が言うことを聞かないからというだけの、本当にそれだけの理由で。
それは俺にとっては嬉しくない発見であるかもしれなかった。俺は、痛みしか知らない。苦痛を与えてくる存在しか知らない。
知りたくはなかった。誰かと一緒に食べる食事がおいしいだなんて。抱きしめられて眠るベッドの温かさだなんて。知りたくはなかった。
完全に眠りに落ちる直前、香坂のことを思って少しだけ泣いた。
「あれ? 鷹羽遅刻しないなんて珍しいじゃん」
相変わらず中身の少ない鞄を机の上に放れば、前の席のやつが振り返ってくる。
少し茶色い髪。人なつっこい小動物のような顔。表裏のない、どこまでも素直で素朴な心。なるほど、俺とは正反対だ。だがこの真っ直ぐな男が、自分と同じ闇を抱えてきたのだと思うと、複雑な気分になった。俺は闇に負けず歪んでしまった。辻は歪まなかった。それは、闇を受け止めてくれる存在がいたからかもしれない。
いずれにせよ、辻に対して憎いとか悔しいとかいう思いは、不思議なほど沸いてこなかった。
「……うるせえよ、ばーか」
少しだけ笑って、いつものように返すことができた。
「じゃあこの『らる』の品詞は? 辻」
よりによって一時間目は古典だった。聞いていてもちっともわからないが、なぜだか目を離せない。開いたノートに何も書かず、ぼんやりとその後ろ姿を見ていた。
相変わらずボサボサの頭。左側を下にして寝るのかな。そっちにたくさん寝癖がついている。チョークを持つ手は大きい。香坂はあまりたくさんの色を使わない。白、黄色、赤の基本の三色だけだ。大事な用語を書くときは黄色、線を引いたり囲いを作るときは赤。国語教師らしく字は綺麗だけど、癖が強い。跳ねをすごく大きく書くのが一番の特徴だった。
「瀕死?」
前の席で辻がことりと首をかしげる。きっと前から見たらさぞ間抜けた顔をしていることだろう。
「もういいや。助動詞ね。じゃあ助動詞『らる』の意味は受け身、尊敬、自発とあとひとつは何だ? 鷹羽」
じっと見ていたらお鉢が俺に回ってくる。待て。まず助動詞って何だ。応える代わりに憎まれ口を叩くことにした。
「オイなんで毎回俺らふたりばっか当てるんだよ」
「はい可能ね。おまえらがクラスの二大バカだからだよ」
教室のそこかしこで忍び笑いが漏れている。もちろん俺がそっちに視線を向けるだけでしんと静まり返るのだが。額に青筋を浮かべた俺と辻には早々に見切りをつけて、香坂は授業を淡々と進めていく。
「次の文いくぞー。読めないやつはふりがな振れよ。また知らず、かりのやどり、誰がために心を悩まし……」
国語は大嫌いな教科だった。曖昧なことばかり言っているよくわからない教科だ。だけど香坂の古典は嫌いじゃなかった。ヒンシとか何とかはよく分からないけれど、古文を朗読するその声は心地良い。流れるようにさらさらと書かれる黒板の文字は見ていて楽しい。チョークを握るその手を。相変わらず寝癖だらけの頭頂部を。くしゃくしゃに皺のついたシャツの背中を。じっと見つめていても許されるこの時間は、嫌いじゃない。
――駄目なのに。もう、こんな目で見るのはやめようと思ったのに。見てしまう。追ってしまう。……求めて、しまう。
(断ち切らなきゃ……)
その日も俺は、自分の部屋で左腕に未練の証を刻んだ。
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