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「出かけるから急いで支度してきて」
日曜の朝。いや昼。インターフォンの連打で強制的に起こされて、ドアを開けると光の下で見るには眩しすぎる男が立っていた。ジーンズにポロシャツ、パーカーと極めてラフな格好なのにどうしてこう様になるんだ。
寝起きでぼうっとする頭で最初に言われたのがこれだった。どこに、とか。俺は行く前提なのか、とか。色々と頭をよぎったが、結局はこうして助手席のシートに収まっている俺がいる。
「いい天気でよかったよ」
のんびり言う雅につられて窓の外に目をやる。秋の澄んだ空気の中、街並みがどんどん通り過ぎていく。小春日和は春ではなく冬の気候を言う言葉なんだぞ、と香坂が授業中に言っていたが、果たして秋晴れは秋の気候を指す言葉でよかっただろうか。
そんなことを考えている間に景色はどんどん変化していく。つい先ほどまでビルやマンションの間を走っていたのに、少しずつ建物が減り、自然が目につくようになる。やがて大きな川にかかる橋を通過し、車が市外へ出ようとしているとわかる。
そういえば、中学の修学旅行を除けば市外へ出るのはかなり久しぶりかもしれない。母親が出ていく少し前から家族で出かけることなんてなくなったから。その前は親子三人で旅行なんてことも、あった気がする。もうほとんど思い出せないが。
背後で小さくなっていく街を振り返る。この数年間、なんて狭い世界で生きてきたのだろう。なんだかいろんなことが一気に馬鹿らしくなった気がした。
「窓あけていい?」
「寒くない?」
「平気」
助手席側の窓を半分ほど開けると、新鮮な空気がふわりと流れ込む。風は冷たかったが、少し肌寒いくらいが丁度いい。
車はどんどん街から離れ、景色は山道という様相を帯びていく。両脇の景色は緑豊かな斜面ばかりになり、ぽつりぽつりと点在していた民家も姿を見せなくなってきた頃、急に目の前が開けた。
「はーい到着」
突然目に飛び込んできた鮮やかな色彩にはっと息を呑む。目の前全てが一面の紅葉だった。赤、黄、橙、茶。まだ少し早いので緑も多いが、見事な色に彩られた山の斜面が大きく大きく広がっていて、そのふもとにある広大な駐車場へと車は入っていった。五十台は停められるだろうかというその駐車場に、しかし他の車の影はない。
車から降りて、辺りを見回す。入ってきた道路を背にして右手には遊歩道の入り口があり、左側には斜面を降りていく階段がある。下は小川になっているようで、控えめな水音が響いていた。
「んー……まだ紅葉にはちょっと早いから人がいないね」
運転席から降りた雅は大きく息を吸って伸びをする。明るい日の下で見るその姿は、いつもとどこか違って見えて、ドキッとさせられた。
「少し歩こうか」
雅は後部座席から小さなボストンバッグを取り出すと、肩にかけて、遊歩道のほうへ歩き出す。小走りでその背を追った。
両脇を紅葉に囲まれた山道は薄暗く、空気がひんやりとしている。長袖とはいえ薄手のシャツで出てきたことを後悔していると、前を歩く雅から寒くないかと声をかけられる。正直に寒いといえば、ボストンバッグの中から取り出したウィンドブレーカーを手渡された。どこまで準備がいいんだとかサイズがでかすぎるとか色々思うところはあったが、黙って着込む。袖が盛大に余ったので半分ほど捲る。途端に内側にこもる熱が、なんだかむず痒かった。
「仕事につまると時々ここに来るんだ」
頭上を覆う色とりどりの木々を見上げながら、雅は明るい声で言う。仕事。そういえば結局何の仕事をしているのか聞いていない。プロフィールには「自営業」とあったし本人は在宅だと言っているが。株ではないなら何かインターネット事業でもやっているのだろうか。……あの閉ざされた部屋で非合法の植物などを栽培して、売っていたらどうしよう。絶対にないとは言えないところが恐ろしい。
そんな失礼なことを考えながら、一歩一歩地面を踏みしめる。土の上には濡れた落葉が散らばっていて、結構滑る。慎重にゆっくり歩いた。
「車で一時間の距離にこんなところがあるなんて知らなかっただろう? 身近にあっても気づかないことって結構あるよね」
なんだか今日の雅はよくしゃべる。歩くのに必死なのと、何を言えばいいのか分からなくてうまく答えられず、風にそよそよ揺れる柔らかそうな髪をぼんやりと見ていた。雅は髪が長いと思っていたが、後ろからまじまじと見ると襟足は短く切りそろえられていて、うなじが露わになっている。その白さが今は眩しい。
「部屋の中に閉じこもって自分の内面と向き合う時間ももちろん必要なものだと思うんだけど、自分の中にある世界なんてたかが知れてるからさ。こうやって外に何かを求めることも、時にはあっていいんじゃないかと思うんだよね」
雅の言っていることは、平易な言葉を使っているが難解だ。何と返事をしたらいいものか迷っているうちに、遊歩道の幅が広くなる。促されて、後ろではなく横に並んだ。
「ま、要するに気晴らしだね」
「……仕事って結局何やってるの?」
自然な流れだったかは怪しいが、思い切って聞いてみる。今なら答えてくれる気がした。横目で見れば雅はおやという顔をしている。言ってなかったかな、とでも言いそうだ。
「そうだねえ。まあ一言で言うと……――」
教えてくれる気になったらしい。期待からそちらに顔を向けたために、完全に足許がおろそかになっていた。濡れた葉に足をとられ、ずるりと滑る。
「え、わっ」
体が勢いよく半回転する。衝撃に備えて咄嗟に目を閉じるが、体は地面に衝突する前に雅の腕に支えられていた。
「大丈夫かい?」
心臓がバクバクする。あと十数センチで背中から叩きつけられる寸前だった。雅は俺を上から抱えるような形で支えてくれた。社交ダンスにこういう動きあったよな、なんて馬鹿みたいなことを考えながら体を起こせば、左手の手のひらにチクリとした痛みを感じた。
「たっ……」
「擦りむいた?」
雅は俺の左腕を掴むと、袖をめくって状態を確かめる。手首の上、小指側のふっくらした部分に擦り傷がいくつかできていた。
「あらら、痛そう。座れる場所にいったら消毒しよう」
そんなものも持っているのか、と感心したようなあきれたような。とりあえずは傷口やその周りについた泥やら葉っぱの欠片やらをはらっていると、傷の具合を見ていた雅の目つきが変わる。
視線を追って、遅ればせながら気づいた。捲られた袖から、自分でつけた左腕の傷が少しだけ見えていた。
「……っ、大丈夫、だから」
少し強引に手を引いた。袖を下ろし、ぱ、ぱと振って汚れを乱雑に落とすと先に歩き出した。何でか、その傷を雅に見られるのは嫌だった。
しばらく歩き続けると広い場所に出る。木々が途切れて、頭上に青空が帰ってきた。そのあたりはちょっとしたレジャーができる場所になっているらしく、水道や水飲み場、ベンチなどが設置されていた。雅に連れられて水道で傷を洗い、ボストンバッグから取り出した消毒と絆創膏で簡単に処置をされた。
「見た感じトゲとかは刺さってないから、多分これで大丈夫だと思う」
そう言って絆創膏の上から傷を何度か撫でる。こういうときは、ありがとうと言うべきなのだろう。だが永らく使われたことのないその言葉は、喉の奥に引っかかり、すんなりとは出てこない。
その間に雅の手はするりと離れていってしまった。自分の不甲斐なさにほんのりと腹が立つ。
「ちょっと座ろうか」
雅はバッグからレジャーシートを取り出すと、平らな地面を選んでそこに広げる。なんでも出てくる鞄から更に取り出されたのは、大小ふたつの弁当箱と大振りな水筒だった。そういえば時刻は昼飯時をとうに過ぎている。
「おなかすいたでしょ。食べよう食べよう」
言われるままにレジャーシートに腰を下ろせば、小さいほうの弁当箱を渡される。ごく普通の、黒いプラスチックの弁当箱だった。ゴムバンドで留められていた使い切りのおしぼりで手を拭いて、蓋を開ける。中には俵型のおにぎりが四つ詰められていた。
「何これ……作ったの?」
「作ったよ。梅と鮭とツナマヨと焼たらこ」
「しかも全部違う味かよ……」
遠足か、と内心ツッコミを入れつつその準備周到さには恐れ入る。イタダキマス、とぎこちなく言ってまずは左端のひとつにかぶりついた。雅はただ梅とだけ言っていたが、刻んだ梅にちりめんじゃこのようなものが和えられていた。歩いたあとの体にほんのりと利いた塩味が染みる。
人の作ったおにぎりなんて、何年振りに食べたのだろう。しばらくの間、何も言わずにぼんやりと紅葉を見ながら空腹を満たした。
水筒の中身はほうじ茶だった。程よく温かいそれを一口飲んで、ほうと息を吐けば、なんだか妙に頭がすっきりしていた。ずっと頭の中心にあった黒い塊が、今は全然気にならない。ただ、歩いてごはんを食べているだけなのに。不思議だ。
「俺さ」
自身は六つもおにぎりを平らげた雅がぼんやりと空を見上げながら口を開く。手も足もだらんと投げ出して、どことなく眠たそうだ。
「一度、こうやって外でシート敷いてお弁当食べてみたかったんだよね」
「えっ、ないの?」
「ないねえ」
「小学校の遠足とか……」
俺だって個人でアウトドアを楽しむようなタイプではないが、それでも遠足や、……家族で花見などの経験はある。雅は眠たいのか、思うところあってか、目をすっと細めた。
「お弁当持たせてもらえないから行かなかったよ」
触れてはいけない話題だったのかもしれない。身を硬くする俺に気づいているのか気づいていないのか、雅はあくまでものんびりした口調で続ける。
「まあひどい親だったよ。とはいえ、俺がこんだけ昼夜問わず連れまわしても何も言わない君んちも大概だよね」
急に矛先が向いて、ぐ、と言葉に詰まる。あの人たちのことは、思い出したくなかった。
「うちは……そもそも一緒に住んでないし」
「え、そうなの?」
こくりと頷く。高校に入ってからはずっと、あの無駄に広い家にひとりだ。不便さは感じたことがない。煩わしくなくて清々するとさえ思っている。
「親子の関係なんて、死んでるようなもんだから」
風が冷たくなってきた。シートの上で膝を抱えて、そこに顔をうずめる。
「死んでる、……か」
なぜか少し笑ってつぶやくと、雅はついに仰向けに倒れ込んで、大の字になる。腕が俺の尻のあたりにきて、落ち着かない。
「うちは物理的に死んでるからなあ」
「えっ……ごめん」
さあっと顔が蒼白になるのが自分でわかる。言葉のチョイスが最悪すぎた。相手が雅でなくても、これはいけない。だが当の本人は気にした様子もなく、薄く笑った表情を保っている。
「まあ聞いてよ。オチも山場もない、つっまんない人生談」
妙に自虐的な言い方だった。本当に今日の雅は饒舌だ。
「父親はもう覚えてないくらいに死んでるんだけど、残った母親っていうのがまあクズでさ。自分にガキがいることなんて忘れているんじゃないかってくらいほったらかし。夜はまず家にいないし、昼間も帰ってこないか寝てるか。ろくに仕事もしていなかったから貧乏だったし。今考えると、俺たちよく死ななかったなあ」
無意識だと思う。俺「たち」と言った。ということは恐らく雅には兄弟か姉妹がいるのだ。雅の、兄弟。想像がつかなかった。
「男のところをフラフラしてたり、家に連れ込むこともあった。そういうときは俺たちは締め出し。公園で一晩過ごしたこともあったし、学校に忍び込んで寝たこともあったっけ」
想像が、できない。あまりにも綺麗で何をして様になっている目の前の男と、惨めな幼少時代を送ったという雅が。本当に俺が聞いていい話なのか。胸がドキドキした。
「それで俺が中三のときにね、実の息子である俺にまで手を出そうとしたんだよ」
「えっ……」
「エグいでしょう? まあそれで女が駄目になったんだよね。そんだけ人の人生歪ませておいて、勝手に男と心中しちゃったよ。最後まで勝手な人だった」
雅はそっと目を閉じた。そして冷たい風にも負けてしまいそうなほど小さな声でぼそりとつぶやいた。
「俺は……楓になりたかったのかな」
「……楓?」
だれ、と問う前に答えが返ってきた。
「ああ、弟」
弟だった。雅の弟ってどんな人だろう、とも思ったが、それよりも引っかかるところがある。
どこかで聞いた名前のような気がしたのだ。そもそも人名として普通に使われている名前なのだから聞いたことはあってもおかしくないのだが、それにしても、どこか身近で聞いたような気がする。数少ない人間関係を思い出してみるが、なかなかヒットしない。
「同じ家で同じように育ったのに、どうしてかやたらまともに育っちゃってさ。どうして俺だけこんなに歪んだかね」
「みや……」
すう、と穏やかな寝息が聞こえてくる。仕事で行き詰っていると言っていた。疲れているのだろう。バッグから見えていたひざ掛けを取り出すと、腹のあたりにそっとかけた。
初めて雅の寝顔をまともに見た。前に雅のベッドで一緒に寝たときは俺のほうが先に寝てしまったし、起きるのも雅が先だった。
閉じた瞼は青白く、伏せられた睫毛は一本一本が太く長い。薄く開かれた唇は薄すぎず厚すぎず、男らしい力強いラインを描く。顎は細いが華奢な印象はなく、全体的に男らしい力強さと繊細さのバランスが絶妙だった。
こくり、と喉が鳴る。
こんな美しい男に抱かれている自分に、優越感を感じなくもないことは事実だ。その方法ややり方は乱暴で残酷だけども、他にいくらでも相手を探せそうなのに、あえて雅は俺を犯す。
どうして雅は俺に執着するんだろう。
綺麗すぎる寝顔を見ながら、そんなことを考えていた。
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