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「ここまででいいの?」
「うん。コンビニ寄りたいし」
家からふたつ離れた交差点で、車を停めてもらうよう頼んだ。辺りはすっかり薄闇に沈んでいた。
雅は寝入ってから十分ほどですぐに起きた。うたたねをしていた自分に少し驚いたようではあったけど、あんな寒風のもとで寝ていて風邪をひかないかが心配だった。
「じゃあ俺もちょっと買い物していこうかな」
あくまで静かな駆動音をたてて、車は器用に狭い駐車場に入っていく。このあたりはいわゆる高級住宅街と呼ばれる地域だが、それでもこのあからさまな高級車は目立つ。そういえばまた職業を聞きそびれてしまった。何をしたらこんな車を乗り回してあんなタワーマンションに住めるのだろう。
「ありがとう、送ってくれて」
自分の口からありがとうなどという言葉が自然に出たことに内心ひどく驚いた。そんな俺の動揺に気づいたか気づいていないのか分からないが、雅は柔らかく笑うとエンジンを止めてシートベルトを外した。
「慎也のぶんも買ってあげるよ。何がいい?」
「え、別にいいのに……」
「いいから」
そんなもどかしいやり取りをしながら車から降りる。先に行く雅のあとに続いて入り口へ向かうが、今時自動ドアではないその入り口は内側から開いた。気づいた雅が足を止め、その背に思い切りぶつかる。
「ぶっ」
無様な声をあげて一歩下がる。中から出てきた人に譲るため、雅も当然身を引くと思っていた。なのにその背は一向に動く気配がない。疑問に思って脇から前を覗き込み、――目を見開いた。
「香、坂……」
「あ、鷹羽、なんで?」
いつも通りのヨレヨレのスーツに身を包んだ担任だった。どこに住んでいるのかは知らないが、そもそもこのあたりは学校からも遠くない。香坂は部活ももっているし、休日出勤の帰りなのかもしれない。
煙草と財布を手にした香坂は、なぜか俺よりもひどく驚いた顔をしていた。まるで死人でも見たかのようなその目は、しかし俺に向けられていない。俺の前にいる人物を食い入るように数秒間見つめ、そして、
「雅……?」
驚いたことにその名を呼んだ。
どうして香坂が雅の名前を? 驚きふたりの顔を見比べて、絶句した。覗き込んだ雅の顔は恐ろしく無表情だった。俺は人の顔からここまで表情というものが抜け落ちるのを初めて見た。
数秒の間のあと、雅はこちらを振り返ることはせずに、しかし香坂を丸っと無視して俺に尋ねてきた。
「ねえ慎也。もしかしてこの人君の担任?」
「え、うん……」
「そっかあ」
それだけ言うと、大きな大きなため息をひとつついた。そのひと息で吐き出されたものがどれだけ重たいものだったか俺には知る由もないが、ひどく、疲れたようなため息だった。
「君、楓の生徒なんだ」
楓。さっきも聞いた名前だ。
『俺は……楓になりたかったのかな』
そう言った雅の目は寂しそうだった。
『楓?』
『ああ、弟』
あのときどこかで聞いたことがあると思ったわけを、急激に理解した。俺は半年前にその名前を聞いている。三年生の初日。始業式だというのにくしゃくしゃのシャツにぼさぼさの頭、曇った眼鏡の担任が言った。
『一応君らの担任になりました。香坂楓です』
全ての要素が俺の中でがちりとはまった瞬間。いつもへらりと緩んでいた香坂の顔が恐ろしく歪んだ。
「鷹羽、そいつから離れなさい!」
「えっ?」
一度も聞いたことのない大声だった。香坂のそんな顔をはじめて見たし、そんな声をはじめて聞いた。その声を受けて雅は、俺と香坂の間を隔てるように腕を伸ばして俺を制した。
「雅、どうしておまえが俺の生徒と一緒にいるんだ!」
「知らないよ。高校の名前を聞いてもしかしたらとは思っていたけど、お前のクラスの生徒だなんて今知った」
「鷹羽、こっちに来なさい。その男に関わっちゃいけない」
何が何やら、頭がいっぱいだった。香坂が、雅の弟。雅は、香坂の兄。それだけではない。この様子を見るに、香坂は雅の異常性を知っていて、そして二人はおそらく……憎しみあっている。
「あっはははは、何て運がいいんだろう。そっかそっか、慎也は楓の大事な大事な生徒なんだねえ……」
突然雅が天を仰いで高笑いする。その狂ったような笑い方に香坂も一瞬たじろぎ、一歩体を引く。その隙をついて雅は体を反転させると、ついさっき降りたばかりの車の後部座席に俺を押し込んだ。
「ちょ、雅? 何を……」
「いい様だね、楓。おまえの大事な大事な生徒はもう俺のものなんだよ?」
戸惑い這い出ようとするが、強い力で押し込まれてシートに転がり込んだ。ドアが閉められ、その向こうで駆け寄った香坂と雅がもみ合いになっているのが見えた。ガラス越しにくぐもった声が聞こえてくる。
「どういうことだ、おまえ鷹羽に何を!」
「おまえが救ってやれない可哀相な慎也くんを俺が大事にしてあげるって言ってるんだよ」
「救って……? 何を」
香坂の眼鏡が弾き飛ばされて飛んでいく。雅が殴ったのかもしれない。あ、と思って香坂の顔を見、ぎょっとした。
どうして今まで微塵も気づかなかったのだろう。
眼鏡を外した香坂の顔は実は目を瞠るほど整っていて、そして、雅のそれにとてもよく似ていた。
「おまえは担任として傍にいながら気づかないのか? この子が本当に欲しているものが。俺だったらそれを与えてやれる……おまえにできないことを、俺はやってやれるんだ」
どこかうわ言のように語る雅の顔は恍惚に満ちていて、その目はどこも見てはいなかった。目の前の香坂も、車の中で身を小さくしている俺も。綺麗な顔を歪ませて笑うその様子に、彼の狂気の根幹を見た気がした。
雅の背がしなり、今度ははっきりと香坂の胴に拳を入れるのが見えた。細い体躯が折り曲がったのを確認すると、素早く運転席に乗り込んで車を走らせる。
サイドミラー越しに、追いすがろうと手を伸ばす香坂が見えた。
雅は車を人気のない地下駐車場に停めると、一旦降りて後部座席に乗り込んできた。そしてそのまま俺に覆いかぶさってくる。制服のベルトに手をかけられて意図を察し、ざ、と血の気が引いた。
「あ、やだっ、こんなところで、」
言葉を最後まで続けることはできなかった。今までのどれよりも強く、鋭い平手で頬を張られていた。雅にとって拒絶の言葉が地雷であることはとうに分かっていたはずなのに。
「やめてよ。拒絶しないで」
制服を脱がせることもなく必要なところだけをはだけさせて、雅は俺を犯した。最初の一撃以外殴られることも、首を絞められることもなかったが、俺の中でどこかが痛い痛いと悲鳴を上げていた。
「うあ、あ、あっ」
「慎也。慎也」
「あっ、や、みや、び……」
「慎也は俺のだよね? 楓のものにはならないよね?」
「ひ、う……み、や……」
「はは、楓から奪ってやった……。ざまーみろ」
今の俺は、雅の歪んだ香坂への対抗心を満たすための道具でしかなかった。俺ではなくてもいい。香坂の生徒だったら誰でも。俺の意思や気持ちなど関係ない。
よく手入れされたふかふかのシートに、ぽた、ぽた、と滴が垂れる。だめなのに。何かを望む権利など俺にはないはずなのに。なにが悲しくて泣いているんだ俺は。
「う……ぐ、ふぅ……」
嗚咽が噛み殺せない。悲しいと思う資格なんてない。俺はこんな風に扱われて当然の人間なんだから。誰に必要とされるはずもない、大切に思ってもらえるわけもない。なのに止まらない。
様子のおかしい俺に気づき、雅の動きが止まった。
唇を噛み締めて涙をこぼす俺を見て、きょとんと目を丸くする。今はじめて俺を認識したかのような顔。はじめて俺を見た目。その表情に心が抉られた。
「折角……分かりたいと思えたのに」
涙と一緒に言葉がこぼれる。ひどいだけの人ではないのかもしれないと。俺の歪みを本当に理解してくれるのではないかと。少しだけ、期待していたのに。
「俺を、ちゃんと見てくれるかと思ったのに」
嗚咽と一緒に吐き出した直後、雅の顔が蒼白に染まったと思ったのは――俺の見た都合のいい幻だったろうか。
「……ごめん」
体内にあった熱が引いていく。ぼたぼたと垂れる粘液が滑稽だった。
雅は俺から目を逸らしたまま、黙っていた。俺も雅をまともに見ることができない。胸を刃物で切り裂かれるようなこんな痛みなんて、知りたくはなかった。
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