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 次の日俺はなかなか起きられず、学校には四時間目から登校することになった。また昇降口で待ち構えでもしてやしないかと思ったが、結局六時間目の数学が終わるまで香坂とは会わずじまいだった。  いつにも増して口数の少ない俺を気遣って辻が色々と話しかけてきたが、今はその顔を見ることすらつらかった。ほとんどを机に伏せて過ごし、帰りのホームルームではじめて香坂から声をかけられた。 「ということで、明日までに進路希望調査出すように。それじゃ解散……の前に、鷹羽」  前を向いて香坂の話を聞いていた視線がいくつかこちらに向けられる。俺は顔をあげなかった。 「ホームルーム終わったら国語科の職員室来て。出席日数のことで話があるから」  口実だと思った。でも逃げるつもりもなかった。  雅は何も説明をしてくれなかった。行為が終わると、もう一度「ごめん」と言い残して、俺を学校に送り届けた。香坂の口から何かを聞けるかもしれないと思った。  「ここじゃあ話しづらいから」と連れていかれたのは、生徒指導室とは名ばかりの物置のような部屋だった。特別教室が並ぶ棟の一番奥、ほとんど誰も立ち寄らないエリアにあり、周囲はしんと静まり返っている。なのに入り口のドアが防音仕様になっていることをその閉め心地で確認し、軽く驚く。ほかの生徒に聞かれてはまずい話をするときのための部屋なのだろう。 中は資料がぐちゃぐちゃに詰められたロッカーやキャビネットが空間の大半を占めていて、真ん中には長テーブルがひとつとパイプ椅子がいくつか乱雑に置かれていた。香坂はその中からひとつ、比較的ボロボロではないものをひとつ俺に寄越し、自分も適当なものに腰掛ける。入り口をふさぐように座られたことにはすぐに気づいた。 「言っておくけど出席日数のことは口実じゃないから。おまえあと五日休んだら卒業できないからね」 「えっまじか」  いきなりがその話題で拍子抜けした。前に似たようなことを言われたときは遅刻でも早退でもとにかく出席さえしていれば良いからと言われた気がする。それならば大丈夫かと思うが、脳裏に雅の顔が浮かぶ。俺はあいつに逆らえない。もし学校に行くなと言われたら。あるいは、監禁でもされたら――。想像してこっそりと身震いした。 「それで単刀直入に聞くけどさ、おまえあいつとどこで知り合ったの」  来ると思ったので返答は用意してあった。俺は頭の回転が速いほうではないし、嘘をつきとおせる自信はない。適度に本当のことを話すつもりだった。 「出会い系サイト」 「出会っ……、男、同士の?」 「そう」 「おまえはその……男の人が好きなのか?」 「そうだよ」  はじめて、人に言った。それも、ずっと好きだった人に。心臓の音がばくばくとうるさい。向かいに座った香坂の顔をまともに見られなかった。そこに異様なものを見る目があったら、耐えられない気がした。  でもよく考えれば香坂も昨日辻とキスをしていたのだ。そう思って、その事実をすんなりと受け入れられている自分に軽く驚いた。 「そうか……気づいてやれなくてごめんな」  じわりと視界が潤む。だめだ、もう香坂のことはあきらめると決めたのに。見知らぬ女の子にあんなことをして、雅にあんなことをされてきて、俺には香坂に優しくしてもらえる資格なんてないのに。なのに俺は今、受け入れてもらえたことがこんなにもうれしい。 「それで、俺の兄だってことは本当に知らなかったのか?」 「昨日はじめて知った」  兄。改めて香坂の口から聞くと妙な感じがするが、眼鏡を外した香坂の目と、雅の目元は本当によく似ていた。そういえば香坂は今銀縁の眼鏡をかけている。予備だろうか。顔を合わせないようにしていたからずっと気づかなかった。 「あいつは……雅は、俺の兄だ。事情があって名字は違うが、れっきとした血の繋がった……」  そう語る香坂は遠い目をしていた。よく見ると唇の横が少し青い。結構な力で殴られたらしい。俺には兄弟というものはいないし親との関係も冷え切っているが、そこまで憎しみ合う家族というものも分からない。  おおまかな「事情」は雅から――香坂のことなどとはつゆ知らず――既に聞いていたが、おそらくそこには、当人たちしか分からないものがあるのだろう。他人の俺が理解しようと思うこと自体がおこがましい。 「鷹羽。正直に話してくれ。最近おまえがやたらと怪我をしていたのは、あいつのせいだな? 殴られたりしたんだろう」  正念場だと思った。俺はこっそりと生唾を飲む。 「……してねえ」 「っ鷹羽! あいつを庇わなくていい、自分より弱いものにはすぐ手が出る奴だということは俺が誰よりも知ってるんだ」 「してねえって」 「鷹羽、お願いだから本当のことを言ってくれ。あいつがお前に無体を働いたなら、俺はお前とお前のご両親に謝らないといけない」 「何もしてねえ!」  一瞬の静寂。窓の外から野球部の練習する声が聞こえてくる。静かな学校の、静かな部屋。沈黙が苦しい。頭が痛くなった。思考が鈍っていって、言うつもりのなかった言葉が喉の奥からせり上がってくる。 「どうして認めてくれねえの。俺はずっと誰かに必要としてほしくて、雅は俺を必要としてくれる。抱いてくれる。それの何がいけないの?」 「抱いっ……鷹羽、お前は未成年だ! それにあいつはお前の体だけが目当てなのかもしれない。それでいいのか?」 「香坂だって辻に手ぇ出してるじゃねーか! それと何が違うんだよ!」  眼鏡の奥で香坂の目がこれ以上ないほど見開かれた。これを言うつもりはなかったのに、もう後には引けない。いけないと思いながら、一度堰を切ってしまえば言葉は次々と体の奥底から溢れ出てきた。  ずっとずっと溜め込んで、飲み込んで、押し殺してきた言葉は、苦しく、重たかった。 「俺だって本当はあんたのことが好きだったよ。すっげー好きだった」 「っ……」 「今でもちょっと好きかもしれない。あんたに優しくされたい、触れられたいって思いながら、でも、絶対にかなわないってこともわかってた。なのに俺はあんたのことを一途に思っていないといけないのか? 他の人に必要とされたいって思っちゃいけないのか? それがたまたま雅だっただけだ!」 「鷹羽、おまえ……」  香坂の目が直視できない。言うつもりなんてなかった。卒業するまで、いや、一生心の奥に閉じ込めておくつもりだった。そのまま死んでしまえばいいと思っていた、こんな思い。  なのに、雅がそこに手を突っ込んでかき回していく。誰かに愛されたい、必要とされたいと願う本当の俺を引きずり出していく。  いやだ、こんな気持ち、怖いんだ。 「雅が俺のことなんて別に好きじゃないだろうことくらい気づいてる。あいつにとって俺はただの都合のいいオモチャかもしれない。でも、それでも俺にとっては唯一、俺に何かを与えてくれる人なんだよ!」  それが拳だとしても、苦痛だったとしても、俺は知ってしまった。あの人の腕で眠る夜が温かく、心地よいということも。あの綺麗な人が抱えているであろう傷も。ひどい奴だとは思う。人でなしだし、変態だし、暴力男だ。それでもきっと、それだけではないのだろうと。今はそんな風に思える。俺が鬱屈したものを抱えてそれを見知らぬ女の子にぶつけてしまったように、雅も何かを俺に吐き出しているのかもしれない。 「……だめだ」  しかし、香坂は苦い顔で首を横に振る。眉間に皺がよったその顔は格好いいな、なんて。そんな呑気なことを考えた。 「あいつはおまえが思ってるよりもやばい奴だ。関わっちゃいけない」  カ、と。頭に熱が上った。 「じゃあ香坂が救ってくれんの?」 「え?」  声のトーンが変わった俺に、香坂が狼狽する。こんな風に困らせたいわけではなかったのに。我儘で、強情で、要領の悪いガキな自分に心底嫌気がさした。 「雅のかわりに抱いてくれんの?」 「な……っ」  ゆらりと、立ち上がる。足元でパイプ椅子が派手な音を立てて倒れたが、まるで気にならない。机を回り込んで、ドアを塞ぐように座る香坂の前に立った。 「俺さ、香坂に話したいこといっぱいあった。教壇に立つあんたを見ながら、足りない頭でたっくさん考えたよ。でももうどうにもならないみたいだから」  その、シャツに皺のよった肩に手をかける。 「だから、ひとつだけお願いがあるんだ」  なあ、殊勝だろう?  たったひとつでいいんだ。やりたい放題してきた悪ガキのこの俺が、たったひとつのわがままでいいと言っているんだ。頼むから、聞いてほしい。 「俺を――拒絶しないで」 「――ッ!」  香坂を強く突き飛ばした。椅子を弾き飛ばしてその場に尻をついたのを確認して、素早くその上にまたがる。向かい合って抱っこをしてもらっているような姿勢に、照れている余裕はない。両手で肩を押して香坂を押し倒した。 「鷹羽、何を……っ!」  咄嗟に押し返そうとする香坂の眼鏡を奪って背後に投げ捨てる。カシャン、と軽い音がした。形の良い瞳が露わになる。眼鏡をしていない香坂の顔は本当に雅によく似ていて格好いい。もしかしたらこの容姿を隠すために野暮ったい眼鏡をしているのかもしれないなんて考えた。  焦る手で香坂のシャツのボタンをひとつひとつ外す。もどかしかったが、乱暴なことはしたくなかった。眼鏡がないせいで香坂は何をしているのか正確に把握できていないらしく、戸惑いながら俺の腕を弱く押し返すだけだった。だがシャツのボタンが全てはずされ、ズボンのベルトに手がかかったところで、ようやく俺の意図を察したらしい。真っ青な顔になって、本気の抵抗をはじめた。 「鷹羽、お前なにを! やめろ!」 「ッお願、いだからッ」  搾り出した俺の声はかすれていた。 「おれを、拒絶しないで……っ」 「ッ――」  視界がぼやける。手が震える。それでもやめるわけにはいかなかった。  ベルトを引き抜く。チャックを開ける。ズボンと下着を一気に下げる。あらわれたモノは当然のことながら力なくぺたんと垂れ下がっていた。体を後方にずらして、ミルクを舐める猫のように四つん這いになる。そして迷うことなくソレに舌をはわせた。 「う、……ッ」  ビク、と香坂の太腿が震える。俺ももう必死だった。丁寧に丁寧に舐め上げて、持ち上がってきたところで口に含む。苦い味が口の中に広がった。雅はどこが好きだったっけ。思い返しながら、愛しいそれを強く吸う。 「ん、ぅん、んんっ」  口の中でソレは容量を増していった。雅のものよりも大きくて顎が痛かったが気にしなかった。これが香坂の味。香坂の匂い。香坂の体温。ずっと触れたい、感じたいと願っていた香坂の体。背筋をゾクゾクとした感覚が通り抜けていった。  一瞬。辻の顔が脳裏をよぎる。俺にとって唯一、友人と呼べるかもしれない男。うるさくて鬱陶しいが、悪い奴ではない。こんなろくでなしの俺にいつも構ってくれた。耳障りな野次から守ろうとしてくれた。その辻の、大切な人を。  ――痛む心に、目を瞑った。 「う、くぅ……ッ」  香坂は顔を真っ赤にしながらも、片腕で口元を押さえて、声を漏らすまいと必死に耐えているようだった。だがどんなに我慢しても、肝心なところは俺に筒抜けだ。口の中に苦いようなしょっぱいような、粘り気のある液がじわりと広がる。 「ふは……香坂、勃ってるね」  はあはあと荒く息をつく香坂を上目遣いで見る。その瞳には、今、俺しか映っていない。 「感じてんだね。うれしい」  ねっとりと唾液を絡めながら口から取り出した雄芯を両手で優しく上下にしごく。しっかりと芯をもったソレは期待に応えるかのようにふるりと震えた。これを俺の内側にねじ込みたい。この熱で満たされたい。愛でられたい。片手で扱きながらもう片方の手を自分のベルトにかける。そのときぐいと大きく頭を押された。 「っ鷹、羽!」  俺を押した香坂の力が存外に強くて、後ろにひっくり返る。パイプ椅子の脚に背中を思い切りぶつけた。痛い。背中より何よりも、拒否されたという事実が。 「悪い……痛かった、か?」  こんな状況で俺を気遣って差し伸べてくる手が、怖い。そのやさしさを受け取ったら余計惨めになる。香坂の手を叩き落とす。気づけば俺は泣いていた。目の前が真っ赤だ。香坂の姿が歪んでいく。  大好きだった。受け入れてほしかった。俺を見てほしかった。俺を愛してほしかった。それを全て雅が壊したと思っていた。香坂に愛してもらえるような体ではなくされてしまったと思った。そうではなかった。  俺ははじめから香坂に選ばれなかった。こんな風に力ずくでしか彼を留めておけない。ぶっきらぼうな彼が本当はひどく優しい教師で、自分がその生徒だという立場を利用した。香坂は俺を突き放せない。それは俺が彼にとって大切な存在だからではなく、生徒だから。そんな弱みを利用する卑劣な俺が、最初から彼に選ばれるはずはなかったのに。  雅のせいにした。性癖のせいにした。家庭環境のせいにした。おまえらが悪いとわめきちらして当たりちらして、そうやって矮小な自分を守ってきた。  そんな俺を、誰が愛してくれるだろう?  香坂は俺の涙に気づくと一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその顔はくしゃりと歪む。悔しいような苦しいような、そんな顔だった。自分があまりに惨めすぎて笑えてくる。 「た、か」  引き留めるように伸びてくる香坂の手をすり抜け、指導室を飛び出した。

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