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 季節はいつの間にかすっかり秋だった。制服の上着を学校に置いてきてしまったので、シャツ一枚では寒さが堪える。だけどこれはこれで頭を冷やすことができて、いいかもしれない。背の高い植え込みに腰かけて、すっかり暮れた空を見上げた。  以前もこうして道に座り込んでいたら、雅が見つけてくれたことがあった。かぜひくよ、と温かい上着をかけてくれた。ストールだったかもしれない。細かいところは思い出せないが、あの温かさと、声の柔らかさははっきりと覚えている。今俺がいるのは雅のマンションの前なので、見つけてもらうというよりは待ち伏せなのだが。  ここに着いたときはまだ薄紫だった空が完全に紺色に落ちた頃、ようやく待ちわびた男が姿を現した。  仕事で出かけていたらしい。仕立てのいい細身のスーツに身を包んだ雅はやはり絵になる。疲れた様子でまっすぐマンションに向かってきたが、植え込みに座る俺に気づくと、身を硬くして足を止めた。おかしくて笑えてくる。おびえるようなその反応は俺がしてきたものだったのに。  雅はあまり多くを語らなかったが、俺を無視することもなかった。寒いから入れば、と短く言って、冷たい手を引いて中に入れてくれた。相変わらず雅の手は熱い。  相変わらず整然とした部屋だ。物が少ないというわけではないのだが、全てが異常なほど整頓されている。テーブルの上のラックにはリモコンが背の順で並んでいたし、ソファに並べられたクッションは黒、白、黒、白と交互になっている。全てのものがあるべき場所にあるべき姿で収まっている。その整然さはかえって圧迫感を与えた。  リビングの入り口でまごついていると、適当に座って、と促される。だがソファでくつろぐ気にもなれず、結局そのまま佇んでいた。外で俺を見かけてからこの部屋に入るまで、雅は一度も目を合わせてくれはしない。今もこちらに背を向けて、キッチンのシンクで手を洗っていた。その背中が、痛い。  妙に長い時間をかけて手を洗い終えた雅が、俺のほうを見ないまま横を通り抜けようとして、はっとする。いつも向こうから働きかけてきた。言葉だったり、接触だったり、いつも最初にことを起こすのは雅だった。俺のほうから何かを発したことが、これまであったろうか――。 怖じ気づく弱い心を隠すように、制服のズボンをきゅっと握った。 「俺、香坂に抱かれてきた」  嘘だ。一瞬の沈黙が痛かった。ひどく直接的な言い方をしてしまったことにほんの少し後悔するが、取り戻すことはできない。  俺の言葉を理解した雅はしばらく背を向けたまま黙っていたが、突然体ごと振り返ると、その手を高く振り上げた。覚悟していたことではあるが、身は竦む。目を固く閉じて身構えるけれど、そのときはいつまでも訪れない。 「っ……」  息を飲む気配を感じて恐る恐る目を開けば、雅は俺の頬めがけて手をふりかぶったまま、蒼白な顔をしていた。そしてその手を反対の手で引き戻すと、己の胸の前で握りしめる。自分で自分を戒めるかのように。何かに耐えるかのように。そしてそれから、ひどく重たく、長いため息をついた。 「……優しい先生に乗り換えるってこと?」  恐ろしく嗄れた声に、心臓が跳ねる。。 「違う。香坂は……やめろって言ってた」 「で、それを俺に言ってどうするの?」 「え……」  言葉に詰まる。俺は雅にどんな反応を……何を、期待していたのだろう。俺の心中を見透かすように、雅は笑った。疲れたような、大人の笑い方だった。 「当ててあげようか」 「ちが、俺は……」 「詰ってほしかった? 殴って、犯して、罰を与えてほしかった? そうすることで許された気になりたかったんだろう?」  耳を塞ぎたかった。  雅の言ったことはきっと当たっている。香坂はきっと俺を責めない。むしろ、おまえの気持ちに気づかなくてごめん、くらいは言うかもしれない。そしてきっと――俺を許す。それじゃあだめなんだ。俺は香坂を断ち切れない。誰かが詰って、身の程知らずがと吐き捨ててくれないと、あそこから抜け出せない。 「ちが……ほんとは」 「俺は……やっぱりそういう役割なんだね」  嫌な役割ばかり期待して。俺は雅を何だと思っているのだろう。相手の気持ちなんて無視をして、自分のエゴだけ押し付けて。俺を暴力で屈服させて犯した雅と何が違うのだろう。  どの面下げて被害者ぶっていたのだろう。  何も言えなくなった俺を見て、雅は笑った。酷薄な笑みだった。 「ほんとは、やってない。うそ、嘘だから」 「まあ、そういう扱いをしてきたんだ。仕方ないよね……でも、そっかあ。君まで楓にとられちゃうんだね」 「みや、」 「はは、そりゃそうだよね」  雅はキッチンとリビングの間の柱にもたれると、己の両手を目の高さに掲げてまじまじと眺めた。俺と違って大きなその手。俺を殴る手。俺の傷を撫ぜる手。その手で首を絞められた。体を洗ってくれた。嫌がる体を押さえつけられた。温かいごはんを作ってくれた。怖ろしい手。優しい手。そしてただひたすらに、熱い手だ。 「君に必要なのはこの手じゃない。楓みたいに包み込んでくれる手なんだから」  初めて見る、哀しい目だった。  俺はこの雅という男のことがずっと分からなかった。今でも分からない。それは、分かろうとしなかったからだ。考えてなどこなかったからだ。雅が何を考えていて、何がしたくて、何を欲していて、何に傷つくのかなんて。一度も考えたことがなかった。  俺を脅して無理矢理犯した雅。香坂と辻の関係を知り自暴自棄になった俺を、部屋に招き入れてくれた雅。温かい晩御飯を食べさせてくれた雅。俺を道具のように扱い、香坂への意趣返しとして手ひどく抱いた雅。紅葉に囲まれた中で、昔のことを語っていた寂しげな雅。  俺には本当の雅がどんな人なのかなんてわからない。だけどひとつはっきりしていることがある。雅に今こんな顔をさせているのは俺だ。浅はかで愚かな俺の業だ。 「行きなよ。楓のところに」 「み、や……」 「解放してあげるよ。君を」  足許に穴があいてしまったかのようだった。俺は今自分がどうやって立っているのか分からない。  結局俺は何がしたかったのだろう。  癇癪を起こして。暴れて。傷つけて。家庭を壊した。  香坂の優しさに付け込んで、甘えて、一方的に自分のエゴを押し付けて、挙句逃げた。  雅に勝手に期待して、勝手に裏切られて、勝手に傷ついて。不用意に傷つけた。  居場所がほしかった。必要とされたかった。理解されたかった。受け入れてほしかった。  すべてかなわない。  俺の手には何もない。俺の隣には誰もいない。自分から誰かを愛そうとしなかったのだから、当然のことだった。 「……疲れた」  吐き出して、その淵に立つ。  幅広の階段。白い床面から、つま先が半分飛び出している。  すべてはここから狂いだした。あの、階段。  あの日誰かに愛されたいなんて思わなければ。待ち合わせ場所のこの店に来なければ。あの背を押さなければ。あのとき正直に俺が押したと名乗り出たら。もっともと振り返れば、俺がこんな風に歪まなければ。いや、そもそも俺などいなければ。  後悔はいつだって役に立たない。俺の歪みをぶつけてしまった少女への懺悔を胸に抱きながら、一歩足を踏み出した。 『まあ手を放すつもりなんてないんだけどね? 今ここを出ていったら君、その辺から飛び降りそうだし』  いつだか雅に言われた言葉を思い出す。手放さないって言ったのに。嘘つき。  ほんの一瞬の浮遊感のあと、一気に床が迫ってくる。どうして今までこうしなかったのだろうと思うくらい、こうすることが当たり前に思えた。罰を与えるなんて損な役回りを誰かに託そうとすること自体間違っている。はじめから自分の手で決着をつければよかったんだ。これ以上ないほど頭がすっきりしていた。  ――これで楽になれる。  見知らぬだれかの短い悲鳴。衝撃に備えて閉じようとした目に、信じられないものが映った。 「慎也!」  階段の下。両腕を広げた、しなやかな体。  どうして?  俺の手を離したくせに。  閉じていた、押し殺そうとしていた心に無理矢理手を突っ込んで、かき回して、惨めで弱い俺を引きずり出して。それでいて、もう戻れないところで手を引いたのに。  なのにどうして今更手を伸ばすんだ。助けてなんて言っていない。助けてもらう価値もない。なのに、どうして――。 「み、や」  瞬間、衝撃が全身を襲った。  夢を見た。  底のない深い深い闇の中に、どこまでも落ちていく夢。  もがけばもがくほど沈んでいく。抗うのをやめて力を抜けば浮かび上がるのに、そんなことは知らず、助かりたいと願うその手足でもって、どんどん深く、落ちていく。  どうして俺だけがと叫んで喉を嗄らした。おまえも落ちろと人を蹴落とした。それでもただひとりで、あちらこちらに蛇行しながら落ちていく。身を引き裂かれながらたどり着いたその深淵で、美しい人に会った。  膝を抱えてただただ上だけを見上げていたその人は、俺が落ちてくるのを待っていた。誰か自分と同じ闇に落ちてきてはくれないかと、渇望し、心を壊しながらもひたすらに待っていた。  そしてぼろぼろになりながら落ちてくる俺を見て美しく微笑み、両手を伸ばして俺を受け止めた。  這い上がるのではなく。抗うのではなく。闇の中をともに手をつないで歩いていけるような、そんな人を待っていたのだと。  やっと気づけたのに、俺たちはいつもやり方を間違える。

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