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 目が覚めると知らない天井が広がっていた、なんて。まさか自分が経験することになるとは思わなかった。 「鷹羽っ。せんせー鷹羽おきた!」  いかにも病室といった部屋の中、枕元の椅子に座っていたのはなぜか辻だった。  辻の奥から香坂も姿を見せる。いつもと同じ様子を装ったその姿に、辻とのツーショットに、胸が切り裂かれた。顔がまともに見られない。 「痛くないか、具合は? 気持ち悪いとかないか? あ、頭あんまり動かすなよ」  いろいろとまくしたてられてどれにどう返事をしたらいいのか分からないが、とりあえず頭を動かしてはいけないということだけは分かった。  自分の身に起こったことは漠然と理解しているのだが、薬でも効いているのか頭がぼんやりとして思考がまとまらない。順番に整理していくことにした。まずは。 「……雅は……?」  女子高生を突き落としたあの階段から、自ら身を投げた。そうするのが相応しいと思ったし、打ちどころが悪くて死んでも構わないと思っていた。なのに、俺は柔らかいものに受け止められた。いくら俺が小さくて軽いとはいえ、人間の重さがあの高さから落下して――あの状況で無傷だとは思えない。  当然聞かれると思っていたのだろう、香坂はあらかじめ決めておいた答えを言うようによどみなく答えた。 「腕を折ったけれどほかに怪我はない。今は別の部屋で痛み止めの点滴をしてるよ」 「そっか」  その返答に俺は心から安堵した。もう誰も傷つけたくなかった。ましてや、雅を俺のせいで失ったとしたら――。それは恐ろしすぎる想像だった。  なぜ雅があの場にいたのかは分からない。それに、なぜ俺を受け止めるなどという無茶をやったのかも。本人に聞きたい気もしたし、怖い気もした。  疑問はもうひとつある。 「なんで辻がいんの……」  きょと、と目を丸くした辻は私服だ。学校はどうしたのかと思い、目だけで窓の外を見れば真っ暗だった。結構な時間眠っていたらしい。香坂がここにいるのは分かる。俺の財布には学生証が入っていたから、学校に連絡がいったのだろう。だが辻は。 「なんでっておまえのことが心配だからに決まってるだろー」  まあ大方香坂から聞いて駆け付けたのだろう。いや、駆け付けてくれた、のか。本当にこいつは、俺を友達と思って接してくれていたんだ。なのに俺は、辻の大切な人を。  熱いものがこみあげそうになるのを、唇を噛んで耐えた。 「とりあえず怪我の状況確認な。診断は脳震盪と頭からの出血。内部じゃないぞ、頭皮が切れてる。左手、左足の捻挫。骨は異常ないらしい。頭を打ってるんで一応今日は入院になるって。傷もふさがってないしな。おまえの頭皮、今ホッチキスで止まってるんだぞ」 「ホッチキス? なんだそれ怖えよ」 「もちろん医療用のな」  どんなものなのか見てみたい気もしつつ、怖い気もしつつ。複雑な顔をしていると、香坂が困ったように眉を八の字にした。 「いろいろ話したいことはあるんだけど……とりあえずごめんな、いろいろと」  このタイミングで言うということは、辻とのことだろうと見当がつく。無意識のうちに視線をそちらに向けると、辻は自分のことを言われているのだとわかったらしく、少しだけ罰の悪い顔をした。違うのに。本当にひどいことをしたのは、俺なのに。 「虫のいい話だけどさ、卒業までは黙っててくんないかな」 「言われなくてもそのつもりだけど」 「それと……」  香坂は少し下がったところでまごまごしている辻の手を引くと、その手を俺の寝ているベッドに置く。 「智紀と、変わらず友達でいてくれるかな」  その言葉にわずかに目を剥く。そんなことが、許されるのだろうか。俺は辻にとって最大の裏切りをした。なのに、いまだ友達と呼んでもらえる資格があるのだろうか。  香坂に目を向ける。辻の後ろ、見えないところで、そっと人差し指を唇にあてていた。どうしてこの人たちは、そこまで優しいのだろう。人を許せるその強さはどこから沸いてくるのだろう。  辻は今にも泣き出しそうな顔をしていた。ただでさえ幼い顔つきなのに、そんな表情をしていては中学生を通り越して小学生にすら見える。そんなことを考えていたら、自分でも驚くくらい自然に笑いがこみあげてきた。 「当たり前じゃん。俺、辻以外に……友達いねえし」  そっぽを向きながら言ったその一言に、一瞬の間をおいてふたりが爆笑したことは言うまでもない。  二人はどうして俺が階段から落ちたのかは聞かなかった。ただ香坂は帰り際に、怪我をしていないほうの頭を撫でてくれた。香坂の手は、雅とは対照的に冷たかった。  その言葉は、素直に口を衝いて出た。 「先生……ごめん」 「うん」  俺のしたことはそんな言葉で許されるはずもないくらいのことなのに、香坂は何度も何度も頭を撫でてくれた。この人を好きになって本当によかった。  香坂たちが出ていってから十分は経ったと思う。痛み止めが切れてきたのか、捻挫したという左手首と左足がズキズキと痛み始めてきた。気を紛らわすために色々なことを考えた。  学校休んだらやばいって言われたのにな、とか。あのふたりは今頃イチャついてんのかなとか。……雅は今なにをしているんだろう、とか。あっちは骨が折れたと言っていた。俺は骨折はしたことがないが、当然痛いんだろうなとか。向こうの病室の番号を聞けばよかったとか。  どうしても思考が雅を追う。もう、あの手は俺を捉えてはくれないのに。  何か違うことを考えようと、どうでもいいことにばかり目を向ける。そういえばこの部屋は個室なんだな、などということに今更気づいたとき、不意に入り口のドアが開いた。しかしそこに立っていたのは医者でも香坂でも、雅でもなかった。  着古したスーツ。やせ細ったひ弱な体つき。何もかもにつかれたというような影の濃い顔。ほとんど一年ぶりに見る、父親の姿だった。 「親父……」  東京のマンションで単身赴任をしているはずだ。まさか俺が怪我をしたと聞いて駆け付けてきたのか、と淡い期待を一瞬だけ抱いてしまうが、すぐに自分で打ち消した。そんなわけはない。そういう人間ではなかった。 「担任の先生から連絡があったんだ。入院などもろもろの手続きをしないとならないから一度来てくれと。保険証もどうやら更新しないといけないようだったし」  久しぶり、も、大丈夫か、の一言すらない。分かっていた。こういう人だ。暴力を振るい始めた中坊の俺を持て余し、残業を詰められるだけ詰めて家に帰らなくなった人だ。母親が出ていった家で俺と顔を突き合わせるのが嫌で、わざわざ東京に異動願いを出した人だ。分かっていた。 「……明日も大事な会議があるというのに。とことん手を煩わせるな、おまえは」  俺のほうが力が強くなってからあからさまに俺を避けていたくせに、今日は珍しく突っかかってくる。怪我をして弱っている今なら大丈夫とでも思ったのだろうか。どこまで器が小さいのかと、逆に感心すら覚えた。 「家にも寄ったが相変わらず無茶苦茶にして……誰の家だと思っているんだ、いい加減にしろ」  うるせえと怒鳴ればどうせ黙るだろうが、今はそんな気力もなかった。それに、俺がしょうもないことばかりしていたというのは事実だ。既に俺はそれを認めることができていた。だから親父の恨み節は甘んじて受けるつもりだった。だが、次のひとことだけは我慢がいかなかった。 「どうしてこんな駄目な奴がうちから生まれてしまったんだ」  目の奥が、カッとなる。  駄目な奴。社会不適合者。クズ。今までに大人から浴びせられた言葉が俺の中で渦巻く。違う、俺だって好きでこんな風に捩れていったわけじゃない。俺は、俺は――。  布団の中で拳を握りしめたとき、勢いよくドアが開く。 「誰が慎也を駄目にしたと思っているんですか?」  突然の闖入者に親父も、俺も、目を見開いた。 どうして。どうしていつもこういう大事なときに来てくれるんだろう。なぜ俺を見放さないのだろう。  親父の背後に、左腕を肩から吊った雅が立っていた。今までに見たことのない、きりとした意思の強そうな顔をして。 「な、なんだね君は」  いきなり現れたやたらと容姿の整った男に、親父は分かりやすく動揺していた。対照的に雅はあくまで冷静に言葉を返す。 「人様の息子さんに申し訳ないですけど、確かに慎也はどうしようもない奴ですよ。十四も上の俺に敬語も使えない礼儀ナシだし、すぐに手が出るし、かえ……担任の話だと、頭も悪い」  ひどい言い様だ。 「でも本当はとても素直だし……弱い」  そのときの雅の表情を、なんと形容したら良いだろう。雅はよく笑う男だったが、それは本当に心の底から「笑顔」だった。目を伏せて、口許を優しくほころばせて。季節は既に秋も盛りだというのに、そこだけ春の木漏れ日が射したように温かい。対象が自分なので何とも気恥ずかしいのだが、もしかしたらこういうときに、「慈しむ」という言葉を使うのかもしれない。 「貴方たちがそうやって押さえつけて、挙句手に余ると見るや放り投げて。そうやって慎也を駄目にしたんです。慎也はもう子どもじゃない。自分のことくらい、あなたたちよりもよくわかっていますよ」  ざあっ、と。風が吹いた気がした。ずっとわだかまっていた黒い塊を吹き飛ばしていく涼風のようでもあり、それでいて眠たくなるような暖かい風のようでもあるそれが、じんわりとこの身を包むのを感じていた。  雅の強い視線に耐えられなくなったのか、親父は「わかったようなことを」とかなんとかをもごもご言って、雅を突き飛ばすように病室から出ていった。  パタム、と静かな音をしてドアが閉まり、部屋には痛いくらいの静寂が訪れる。閉まったドアに顔を向けている雅の後ろ姿をこれでもかと見つめた。  雅はあのとき――書店で俺を受け止めたときと同じ、スーツに身を包んでいる。痩せているが決して華奢ではない、確かな「大人の男」の逞しいラインがはっきりと浮き出たそのスーツ姿は、本当に様になる。こんな絵になる男が今まで俺を抱いていたのかと思うと、恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔が熱くなった。なのに左腕から下げられた吊りが痛ましい。その左腕は肘の下から手首まで黒い布の器具でががっちりと固められていた。  どれくらい経っただろうか。先に痺れを切らしたのは雅だった。  はああああ、とわざとらしいくらい大きなため息をついて、こちらに向き直る。振り返った顔は、怒っているような苦しんでいるような、複雑な顔をしていた。自由になる右手でがしがしと頭をかくと、さっきまで辻が座っていた丸椅子を引き寄せてベッドサイドに座った。そして、ひどく小さな声で、 「痛く……ないかい?」  と俺の体をいたわった。頭以外は雅のほうが重傷なのに。なんだかおかしくて、ふたりの間でわだかまっていたものが少しだけ軽くなった気がした。 「平気。寝てる間に痛み止めの点滴してたらしいし。雅は?」 「うん大丈夫」  そんな風に俺を気遣うなんてらしくないと思ったが、そもそも他人がらしいとからしくないとか、そんな風に決めつけるのがおかしいのだろう。俺はまだ雅のほんの一部分しか知らないのだから。  雅は膝の上で組んだ指をもぞもぞと動かしながら、あのときあの場所にいた理由を教えてくれた。 「……あの書店は仕事でちょっとした付き合いがあってね。前からよく行くんだ。だから最初の君との待ち合わせも、あそこにしたわけなんだけど。今日も仕事で気になることがあって訪れたら、君が虚ろな目をして入っていくのが見えた、から」  じわり、と。込み上げてくるものがある。そこで見なかったふりをすることだってできたはずだ。俺は雅にひどいことを言った。もうあいつなんて知るか、とその場を立ち去ることもできた。だけど雅は、追ってきてくれた。手を伸ばしてくれた。受け止めて、くれた。  その事実をどう解釈すればいいのか、馬鹿な俺には分からない。高校に入ってからまともに頭を使ったことのない自分を激しく後悔した。  困ったように眉間に皺を寄せる雅など見ていたくなくて、寝返りを打とうとするが、何重にも巻かれた包帯のせいでうまく動かせない。もぞもぞ動いていると左右に分けていた前髪がぱらりと落ちてきて、目に入りそうになる。掻き分けようとした瞬間、その手をぱしりと掴まれた。強い眼差しと視線がかち合ってしまえば、目を逸らすのは難しい。  こうやって黙って向かい合えば、雅は本当に整った顔をしている。何度も思ったことではあるが、改めて実感した。その雅に似ている香坂も本当はかなり綺麗な顔をしているはずなのだが、彼のように野暮ったさで隠していない分、雅の放つオーラはあまりに華美で、あまり長いこと見つめていると頭がくらくらしてしまう。耐え切れない。  指先がふるりと震えたことに気づかれただろうか。雅は綺麗な形の唇をそっと開いた。 「どうして気づけなかったんだろう。君は、俺のことを分かろうとしてくれていたのに……たくさん、傷つけてしまった」  この手は俺を何度殴ったろう。どれだけ俺を押さえつけただろう。だけどこの手が俺をここに留めてくれる。ここにいていいのだと、強引に掴んでくれる。そしてそれが嫌ではない俺が、ここにいる。 「君に必要なのはこの手じゃない。誰かを殴り、虐げることでしか留めておけないこの手じゃない。楓のように、優しく包み、導いてくれる手なんだと。何度も思ったのに、身を引けなかった。苦痛に耐える君はいじらしい。本当は弱くて泣き出しそうなのに誰にも縋れない君が可哀相で惨めで……守りたい、という感情を、はじめて抱いた」  これは都合のいい夢ではないだろうか。俺が雅に勝手に期待をして、自分に都合のいい言葉を言わせている夢なのではないだろうか。そう思ってみるけれど、俺の手を握る手のひらはやけどしそうなほどに熱い。その熱だけがどこまでも現実だった。 「この思いを、愛しいというんだろうか」  こんなことがあっていいのだろうか。人を拒絶し、自分や周囲を傷つけることでしか自分を守れなかった愚かな俺を。こんな風に思ってくれる人がいていいのだろうか。 「せっかくそのことに気づけたのに、君にしてきた仕打ちはもう取り戻せない。本当に、ごめん」  す、と熱が引いていく。目を開けたときには、雅は立ち上がってこちらに背を向けていた。そして真っ白なドアに向かって、一歩を踏み出す。  俺は。俺はどうしたいんだ。どうしてほしいんだ。何を言えばいい……。分からない、分からないことだらけだ――。  停止する思考とは裏腹に、体が勝手に動いていた。 「やだっ、行かないで、っ――あっ」  体を起こしてベッドを降り、追いかけようとして、ベッドの柵に引っかかった。顔から床に落下する。ずべしとかずべしゃとかそんな音がした。 「慎っ……、何してるんだ馬鹿!」  血相を変えて雅が駆け寄ってくる。鼻がヒリヒリと痛い。 「頭が切れてるっていうのに、ああもう、何ともないかい?」  助け起こしてくれた腕に縋ったまま、その顔を見上げる。冗談みたいに綺麗な顔が、目の前にある。形のいいその瞳には今、俺しか映っていない。  その瞳をまっすぐに見つめていたら、言葉は自然と体の内から溢れてきた。 「助けてくれたじゃん」  階段から落ちたときも。今も。駆け寄って、手を伸ばしてくれた。そのせいで自分まで怪我をして。 「ちゃんと雅は俺を助けてくれたじゃん」 「……それは」  雅の目が泳ぐ。いやだ。もっとちゃんと見て、俺を。 「一回手を出したなら、中途半端に投げ出さないでよ。俺をひとりにしないで」 「……俺には資格がないよ」  何だ、それ。人を想うのに資格がいるのか。ましてや誰かの許しなど。 「優しくなくていいよ。普通じゃなくてもいい。そのままの雅がいい」  周りが、親が、香坂が、間違っている、だめだと言ったって。俺は雅のところに居場所を見つけた。ここがいい。雅と一緒がいい。 「手を離さないで。俺を見て」  視界が滲んで雅の姿が見えなくなる。だが、目で見る必要などなかった。その長い腕に、広い胸に、抱き締められていたのだから。全身で雅を感じる。温度。匂い。雅に包まれているという充足感で頭が痺れてぼうっとした。 「これから俺のこと分かろうとしてよ。俺もあんたのこと分かりたい。理解したい。まだ……好きかは分からないけど、あんたと一緒にいたいって思ってることは本当だよ」 「……きっと優しくできないよ」 「いい」 「また君を()つかもしれない」 「いいよ」 「もっとひどい目に遭わせるかも」 「大丈夫」  一緒に落ちる覚悟はできているから。  水膜ごしに瞳と瞳で見つめ合い、そっと唇が重なった。そういえばキスをするのは初めてだった。あんなに何度も体をつなげたのに今更、キスだけでこんなにも満たされるだなんて。  雅の唇は乾いていたが、その手のひらと同じで温かかった。

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