14 / 116

14.憂い

 何かにぶつかったようだ。やわらかい。相手は女子生徒だろうか。 「ごっ、ごめんなさ――」  女子ではなかった。男性だ。上下黒のスーツ。白シャツにライトブルーのネクタイを締めている。 「大丈夫かい?」  穏やかな微笑み。体型も相まって、某フライドチキン店の創業者を彷彿(ほうふつ)とさせる。もっとも髪色は白ではなく黒ではあったが。 「おや? この目は?」 「あ、これはその……大丈夫です! 明日には取れるので」 「そう! それは良かった」  丸い腹が大きく揺れる。やわらかな感触の正体はこれだったのか。謝罪も忘れて凝視(ぎょうし)する。 「それにしてもこんな形で再会するとはね~」  どうやら男性はルーカスのことを知っているようだ。しかし、当のルーカスには覚えがない。反応に困っているとにこやかに種明かしをしてくれる。 「指田(さしだ)だよ。白渡結子(しらとゆいこ)先生の水彩画教室に通っていた」  ――指田(すすむ)  景介(けいすけ)の祖母・白渡結子の一番弟子だ。3年前に顔を合わせていた頃は東京の美術大学に通う学生だった。  記憶の中の進と目の前の男性とが重なりかけるが、あと一歩のところでノイズが走る。丸い腹のせいだ。ルーカスがよく知る進はかなりの痩せ型で、風が吹けば(ちり)や枯れ葉と共に飛んでいってしまいそうなほどだった。本当にあの進なのだろうか。首を傾げながら目の前の男性を見る。 「1年前に結婚してね。所謂(いわゆる)幸せ太りというやつだよ」 「そ、そうなんだ! おめでと――」 「敬語」  発したのは景介だった。 「あっ! ごめ……っ、えと、……申し訳ございません!!」  状況から察するに、進はクラス担任なのだろう。こそばゆく、寂しい気もするが同時に誇らしくもある。 「ばあちゃん、絵の先生だったのか!? すげぇ! お前、物本のサラブレッドじゃん」  話を聞いていたらしい。頼人は驚きつつも賞賛した。やはり彼には話していなかったのか。 「…………」  温かな記憶を手繰り寄せ、抱き締める。 「俺は別に――」 「なぁ、今度見せてくれよ」 「…………」 「なっ!? おい、景介!」  また一人で歩き出してしまった。 「あ〜……地雷だったか?」 「そう……だね」  悪気はなかったのだろう。当然だ。今、知ったのだから。細かな事情など知る由もない。 「あ……」  ――進は知っているのだろうか。ちらりと進の方を見る。彼は切なげな眼差しを景介に送っていた。 「もしかして……ご存知なんですか? ケイが絵を止めたの」  進は苦笑をしながら頷く。 「お葬式の時に、本人から直接聞いたから」 「誰の?」  堪らず尋ねると、進は一呼吸置いてから答えた。 「白渡先生の。亡くなってもう3年になるかな」  記憶の中で結子の姿を探す。カーテンの隙間から差し込む淡い光のような人だった。料理上手で、中でも『せいだのたまじ』というジャガイモの味噌煮込みは絶品。ルーカスの好物になった。 『段野(だんの)の郷土料理なんだよ』と話して聞かせてくれたその声は、亡くなったという事実を知ってしまったせいか、妙に遠くに感じる。 「どん底だったんだな」  呟いたのは頼人だった。 「もっと早く出会えてたらなぁ……」  景介と頼人が知り合ったのは中学3年の夏。結子が亡くなり一番辛かったであろう時期に支えてやることが出来なかった。そんな自分を責めているのだろう。  景介は良い友人を得た。胸を温める一方で、どうにもそわそわとして落ち着かない。嫉妬だけではない。頼人の(うれ)いを帯びた眼差しがルーカスを不安にさせる。そんなはずはない。根拠となり得る理由を並べてもまるで安らがない。不安はただひたすらに深まる一方だった――。

ともだちにシェアしよう!