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19.フレームの中へ

 けたたましい電子音で目を覚ました。視界いっぱいに白天井が広がる。頬が冷たい。涙だ。紺色の羽毛布団を勢いよく手繰り寄せる。 「もう7年も経つのに……」  アラームを止め、白い木製のチェストに目を向ける。そこにはカメラがある。  いじめを受け、(ふさ)ぎ込んでいたルーカス。そんな彼を外に連れ出したのがこのカメラと父だった。言うまでもなく最初は全力で拒んだ。カメラを見ただけで、あのおぞましい写真を思い出したから。けれど、父は諦めなかった。1か月もの攻防の末に根負けし、止むなくカメラを手に取った。人は絶対に撮らないという条件を突き付けながら。  そうして連れてこられたのが自宅から車で10分ほどのところにある『ポプラの森』。降り立った瞬間、色違いの瞳が瞬いた。  周囲を囲むポプラの木々。10階建てのビルほどもある背で存在をちっぽけなものに。中央に広がる青く澄んだ空で心の汚れを洗い流したのだ。  真っ新になったルーカスは、父に(なら)い周囲を観察し始めた。雫のような形をしたポプラの葉が地に向かって落ちていく。葉はやがては養分となり、春の芽吹きの(かて)となる。すべては巡る。感情もなしに。  手元のカメラを一瞥(いちべつ)し、ファインダーを覗く。広がる美しい世界。ここだ。今日からここが自分の居場所。自分だけの世界だ。口角を上げながらシャッターを切った。頬を滑る雫を肌で感じながら。  ――それからルーカスは旅に出た。父と共に世界中のありとあらゆる場所を巡り、写す。次第に自然の風景が好きだと公言するようになる。大きな前進である――はずが、喜べなかった。  疑念を抱いていたからだ。自身の抱く感情に。どんなに雄大で素晴らしい景色を前にしても嘲笑(ちょうしょう)が止むことはなく、それらから逃れるようにカメラを構えている。そんな自身の存在を否定することが出来なかったのだ。  故に、抱く感情そのすべてが偽物。一種の演出に過ぎないのではないかと疑い続けていた。  ルーカスは起き上がり、向かい側に目を向けた。そこには1枚の絵がある。初めて目にした時のことを、今でもはっきりと覚えている。  ――山萩(やまはぎ)のトンネル。そこから覗き見るようにして描いた、菜の花が揺れる榊川(さかきがわ)の河川敷。  眺めている内に胸が高鳴り、心の傷が()えていくのを感じた。どんな人が描いているのだろう。顔を上げて驚いた。描いている少年の目は底が見通せぬほどに暗く、(よど)んでいたのだ。  どういうことだ。困惑している間に少年はそそくさと片付けをし始める。 『待って』  咄嗟(とっさ)に少年の腕を掴んだ。 『……っ! 離せよ!』  目をぎらつかせながら、身を縮める。追い詰められたノラ猫のように。狂おしいほどの怒りは盾だ。そう察知したのと同時に、悟った。  ――彼もまた逃げているのだと。  誰もいない自分だけのフレームの中へ。故郷から遠く離れた地で(ようや)く出会うことが出来た仲間。留めたい。その一心で提案した。 『オレと景色の交換こ……しない?』  ――正面にある榊川の絵を起点に部屋中を見回していく。広さは15畳ほど。私室でもあり、ギャラリーでもある。そのため机は右端に、棚やクローゼットは左端に追いやって壁という壁に景介の作品を展示。ゆったりと眺められるよう、部屋の中央にロータイプ・クイーンサイズのベッドを持ってきている。  その甲斐もあってこの部屋にいると心底落ち着く。影は変わらず付き纏ってくるが、手には景介(けいすけ)と彼の世界から得たランプがある。これがある限り自分は歩いていける。何の心配もいらない。歯を出して笑い、自室を後にした――。

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